知つてゐる限りでは、諺と言ふものは偶数句になつてをり、歌と言ふものは奇数句になつてゐるものです。偶数句の歌と言ふものは、諺の影響を受けてゐるのです。だから、古い時代の歌と言ふものは諺に近い。古事記、日本紀或は万葉集の古い歌は偶数句に近くて、これは諺とそんなに離れてゐないと言ふことになります。
諺と言ふものは、そんな風な性質を持つてゐる。そして当然の理由から、かう短くなつて行つたが、もとは相当長かつたゞらうと思ひます。けれども、長かつたら諺ではない。つまり、諺と言はれてゐるものは、伝承されてゐた文句が切れて短くなつてしまつてから、諺となつたのです。だから、私はかう言ふ風に考へてゐるのです。本道は諺と言ふものゝもとには、呪詞がありまして、その中の一番の急所が、諺として残つてゐる。歌も同じで、歌と言ふものゝもとには長い叙事詩があつて、それが歌はれてゐる中に、その中の一部分だけが歌はれるやうになつた。その部分は一部分だけ歌つてゐても、全体歌つてゐるのと同じ効果を持つと言ふ程、威力がある部分です。さう言ふものだと思ひます。兎に角諺と言ふものは沢山あります。歌程はございませんけれども、殆ど同じ位沢山あります。唯、歌は早く創作せられましたけれども、諺は創作されることが割合に少かつたのです。そして諺と言ふものゝ意味が変転して行きまして、だん/\、謎みたいになつて来る、言はゞ謎と言ふものに変つて行きました為に、諺は諺として止つてしまつた。併しながら、亡びきらずに僅に勢力をつないで来たのです。それが後に諺の意味が変りまして、社会的な訓諭の意味を持つてゐる文句、と言ふやうな事になつて来てから、沢山に殖えて来たのです。それでもなか/\歌の比ではありません。
で、諺と言ふものは、二つの種類に分ける事が出来ます。一つの諺では、唯、その言葉だけをば伝へてゐる。併し、唯伝へたゞけでは為様がないから、さう言ふものは亡びてしまふ。それで生活に結びついてゐる、生活に関係のあるものだけが残つてゐる。だから、古事記、日本紀なんかの中には、訣の訣らぬ言葉と言ふものが沢山にあります。訣らぬけれども、なにか意味がありさうに考へられてゐる。譬へてみますと、天孫降臨の処に日本紀では二通り――古事記では一通りです――書き方に違つた処があります。天孫が降臨せられる処に、「|立[#二]於浮渚在平処[#一]《ウキニマリタヒラニタヽシテ》」と言ふ文句があるのです。高千穂の峯に来られた時の事で、日本紀では、だいぶ合理化されて書かれてゐる様です。つまり、ふわ/\した処に降りて来られた事にして、書いてゐるらしいのです。一番自分達の感じに近い様に、「浮渚《ウキニマ》り平なる処に立たして」と書いてあります。さう書いた処で訣らないのですが、日本紀にはまう一つ又別の、又古事記にも別の伝へがある。兎も角、これは諺だつたのです。それ等がさう言ふやうに覚えられてをつた。何故か訣らぬけれども、兎に角、昔から覚えてをつた。だから、失ふことの出来ないもので、伝へてをつた。伝へてはをつたけれども訣らないから、だん/\変つて行き、幾重にも伝へが変つて来る。
ところが、そんなものばかりではありません。諺も、必ず、一つの問題を含んでゐると言ふ形のものが出来て来る。常陸風土記で見ると、諺は多くは枕詞です。つまり、その地方で言ひ伝へてゐる重要な言葉と言ふことらしい。ところがその時分の京都の方では、全体にさう考へてをつたか訣らぬけれども、古事記や日本紀を通じて見ますと、まう少し違つて、一種の落し話の前形みたいな形をもつて来てゐる。
ある名高い話ですが、仁賢天皇の時の事、高麗に日鷹の吉士をお遣しになつた後、難波で女が泣いてゐた。この女は日鷹の吉士の妻なのですが、「於母亦兄《オモニモセ》、於吾亦兄《アレニモセ》、弱草吾夫※[#「りっしんべん+可」、279−27]怜《ワカクサアガツマハヤ》」(仁賢紀)と言つて泣いてゐた。この意味はお母さんにも兄さんだし、私にも兄さんだし、さうして私の亭主だ、と言ふ事でせう。それで「母《オモ》にもせ[#「せ」に丸傍点]、我にもせ[#「せ」に丸傍点]、若草我つまはや」と言つて泣いてゐる。それでは訣らないが、それを訣るやうに、「秋葱《アキギ》のいやふたごもりを思ふべし」と説明した、と書いてあります。あきゞ[#「あきゞ」に傍線]と言ふのは今何に当りますか、秋になると出る蒜とか葱とかの類でせうか。あきゞ[#「あきゞ」に傍線]は中を割つて見ると、たま[#「たま」に傍線]が幾つも這入つてゐる。ふたごもり[#「ふたごもり」に傍線]と言ふ事は「ともに」と言ふ事です。非常に幾つも/\這入つてゐる。あれを考へたら訣るではないか、と言ふ事で、「秋葱のいやふたごもりを思ふべし」と言ふ事は、これも一つの伝へ言葉だと思ひます。日本紀に書いてある様な、そこへ行つた賢い人が、そんな事を言つて仮説を与へた訣ではないと思ふのです。この言葉を古い説では、可愛いと思ふと言ふ風に説いてゐる説もありますが、それはよく訣らぬが、兎に角、「於母亦兄、於吾亦兄云々」と言ふ事は、後には西鶴なんかも書いてゐるのですけれども、お母さんにも兄さん、私にも兄さんと言ふのですから、お母さんの兄さんなら、お母さんのお父さんの子供に違ひない。私にも兄さんと言ふ以上には、自分のお父さんの子なのに違ひない。さうして自分の亭主だ、と言ふのですから、この女は自分の兄さんと結婚したと言ふ事は訣る。同時にその亭主でもあるところの自分の兄貴が、母親の兄貴でもあると言ふことにもなるのです。つまり、血族結婚の非常に複雑な事を示してゐるので、お祖父さんが複雑な結婚をしてゐると言ふ事になるのでせう。これを表に作つて見ると、色々な関係が出来て来るのですけれども、お祖父さんに原因があると言ふ事は、一番確な事でせう。つまり、「母にもせ[#「せ」に丸傍点]、我にもせ[#「せ」に丸傍点]、若草我つまはや。」と言ふのは諺なのです。此諺が何時起つたかと言ふ事は訣らぬけれども、兎に角、仁賢天皇の時分だと言ふ事になつてゐる。そんな事の歴史上の事実を求めると言ふ我々の類推力と言ふものは、此処で説明しなくてもいゝ事なのです。その後に続いてゐる今の「秋葱の云々」も、つまり、謎の解答みたいなものなのです。「秋葱のふたごもり」ではないけれども、と言ふやうに申して見たらいゝでせう。ごちや/\になつてゐると言ふ事なのでせう。舅と嫁が結婚すると言ふ事を「芋洗ひ」などゝ言ひますが、さう言ふ事に似た感じなんでせう。つまり、諺の解説がついてゐる謎です。
又土地の諺も沢山あります。大抵の場合、かう言ふ歴史上の事実からかう言ふ諺が起つたのだ、と言ふ風に書いてあります。「かれ、何々とぞ言ふ」と言ふ風に書いてあります。玉作りが役に立たぬ玉を差上げたので、天子様がお怒りになつて、玉作りの土地をお奪ひになつた。それで、「地《トコロ》得ぬ玉作り」と言ふのだと言ふやうになつてゐる。そしてそれに就いての説明として、名高い歴史上の事実をずつと使つて来た。垂仁天皇様の皇后がその兄君のお城にお這入りになつた時、子供だけを城からお出しした。その時、その子供と共に、お母さんの手を引張らうとして、玉の緒を引張つたら、普通なら切れないのに、玉作りが、予め、引張ると切れる様に腐らしておいたので切れてしまつた。それでその城が焼けて――稲を積んで出来てゐたから――皇后様はおかくれになつてしまはれた。それで、天子様がお怒りになつて、玉作りの土地をお取上げになつた、と言ふ物語ですが、この物語とこの事とに、つながりのある部分は昔の人の空想で出来てゐる。かう言ふ形の諺と言ふものは沢山あるのです。それが平安朝に持ち越されて、平安朝の物語、所謂歌物語と言ふものが出来てをります。その場合には歌と諺とは、殆ど同じに扱はれてをりまして、譬へば、竹取物語をみると、諺の話が沢山出て来るのです。その時からかうなんだと説明がしてある。癪に触つたから持つてゐた鉢をぱつと捨てゝしまつた。それで、その時から「面《オモ》なきことをば、はぢを棄つとはいひける」とかう書いてある。今では洒落にもなんにもならぬけれども、つまり、短い物語と言ふものは、さう言ふものが発達してゐる訣です。かう申して来ると、多分に文学的なところになつて来ますが、文学的な処は切り上げたいと思ひます。

     五 古典の擬古的傾向

先に申しました様に、諺には問と答とではないけれども、それに似た呼応、呼びかけるとそれに応ずると言ふ、条件的の構成がだん/\出来て来まして、それがちやうど、謎とよく似て来てをります。謎と言ふものも、我々には本当に何時頃起つたかと言ふ事は訣らぬ。書物に出て来るのが、まづ平安朝の中頃ですが、平安朝の中頃に起つて、それが卒然と書物に出て来る訣はないでせうから、少くとも平安朝の始め位と推定してよいと存じます。断片的に、似た事柄を並べて行けばいゝと言ふやうな、随筆的な態度から言ひますと、まあ似たものもそれ以前にございます。神武天皇が大和の国に這入られた時に、倒歌諷語と言ふ事が見えてをります。これは対語《ツイゴ》ですが、こんな倒歌諷語と言ふ字面の信用は出来ません。兎に角、逆表現をする。言はうとした事の逆を言ふ。つまり、訣つてゐる同志には訣るけれども、脇の者には訣らない。つまり、合言葉みたいなものでせう。合言葉であつて逆に行くもの、と大体さう考へられます。諷語は暗示する言葉の事です。兎も角も、それを言つてゐる人の意志は表面には出てゐないが、訣る者にはその意味が訣る、と言ふやうな言葉に違ひないのです。大和の国の中に沢山賊がをつて、それが色々な禍をするので、倒歌諷語をもつて御自分達の軍隊を指導して行かれた。すると相手が真似をすれば、相手にはその言葉の通りの効果が現れ、自分が言へば、その言葉の逆の事柄が現れて来ると言ふ、かう言ふ言葉でせう。つまり、相手が言へばその通りの効果が出て、相手は呪はれると言ふ言葉でせう。大抵、昔の言葉には、無条件に言つていゝ言葉と、言つてならない言葉が沢山あつたに違ひない。で、倒歌諷語と言ふものが、果してあつたか、なかつたか訣らぬけれども、神武天皇が大和に入国せられた時、世の中に、かう言ふものがあつたと、後世の人が謎としてゐるのでせう。その謎としてゐる言葉と言ふものが倒歌諷語なんです。兎に角、神武天皇が大和に這入られた事は事実なのですけれども、こまかい事は後世の嘘や想像が、沢山這入つてをりませう。倒歌諷語があつたと言ふ事も、後世にもあつたことで、これが神武天皇の時に始つたと言ふ考へを持つてをつた、とかう思つてよからうと思つてをります。つまり、昔の人の歴史観は、始めて言ひ出したとは、その時起つた事を意味してゐます。今の学者でも、この事件が天皇のこの時にあるので、謎がこの時に起つたと考へる人もありますが、それは悪い。唯、昔の人は、その時始つて以後行はれてゐたと考へた、と見て差支へありません。
つまり、倒歌諷語と言ふのは、さう言ふ合言葉みたいなもので、相手がうつかり真似をすると、相手に呪ひが行くと言ふやうなものでせう。合言葉と言へば言へますが、これに多少謎の匂ひがかゝつてをりますが、謎とは言ひ切れません。だから、昔の人のものゝ言ひ方と言ふものは、自分一人で表現してゐて、自分一人で解釈の表現をするとか、思想を述べるとか言ふ事がございます。さう言ふ事はあり勝ちの事です。あり勝ちの事ですけれども、実際の現象ではない。さう言ふ現象は昔から伝つてをつた型の定つた現象をば、だん/\変形させつゝ、附け足し/\して伝へて来たに過ぎないのです。其一番最初として申しますと、譬へば我々の考へてゐる祝詞のやうなものです。
祝詞のやうなもので非常に古いものが昔ありました。それがだん/\伝へられてゐる中に、目的が分化して来て、色々な祝詞が出来て来ました。それでも、まあ数は少かつた。ところが世の中が進んで来ると言ふと、今度はもつと沢山祝詞を拵へなければならぬ。それで祝詞の新作と言ふ事が行はれます。すると、どう言ふ
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