言ふと、大胆な想像を駆つて、この瘧になると髪なんか振乱して苦しむからわらはやみ[#「わらはやみ」に傍線]と言ふのだ、と言ふ説もある。さう言ふ愚説を沢山集めての国語研究も必要なんです。愚説と知りながら集めなければならぬ。今の万葉研究者は愚説を賢説と誤つて研究してゐるのですが、万葉は余り研究せられて、万葉研究は止めたらいゝと思ふ程、どんな山奥でも万葉研究をしてゐる。山奥だつて出来ない訣はないけれども、自分等の職業意識を働し過ぎて、つまらぬ研究は止してしまへばいゝと、虫のいゝ事を考へてゐる位なのですけれど、どうも余り誤り過ぎてゐる。而も昔の人の愚説ばかりを並べてをつて、賢説と同じに扱つてゐる。愚説は、賢説の発生する順序として見るより為方がない。愚説と賢説との区別をしないでやつてゐるその研究態度は、非常に悪い。愚説の陳列を学問と思つてはいけません。その最後に自分の賢説を附添へて置かなければなりません。――我々はわらはやみ[#「わらはやみ」に傍線]などゝ言ふと訣らぬが、言葉は訣つてゐる。その上訣らないでもいゝではないかとも言へますが、まる/\訣らなければそれでいゝのですが、わらは[#「わらは」に傍線]と言ふ言葉は訣つてゐる。又やみ[#「やみ」に傍線]と言ふ言葉も訣つてゐる。だからまう一つ訣らないと気持が悪い。私は知りませんけれども、事実ある地方では瘧の時坊主が出て来て――子供だつたのでせう――子供がそつと来て、蒲団の上に乗るんです。さうするとふるひだす。行つてしまふとふるはなくなる。出て来ると又ふるふ。さう言ふ事を申します。だからわらはやみ[#「わらはやみ」に傍線]と言ふ事は訣りますね。多分、ではない、さうに違ひないと言ふ事が出来ます。

     三 文学者の階級と言語伝承と

民間伝承の種類を私が申す必要はないんですけれども、私の話が国語に関する事ですから、いきほひ、その他との限界をつけなければなりません。つまり、言語を以てする伝承、所謂言語伝承。それから物を以てする伝承、物体伝承とでも名前をつけて置いてよろしいでせう。それから行動を以つてする伝承、行動伝承。それから心を以つてする伝承、心意伝承。これは柳田先生が、心意現象と言ふ事を言ひ出されまして、他ではさう問題になつてゐないやうですけれども、我々は新しく人間の心意の上の、心の上に伝へられて行くものに就いて、観察しなければならぬ。形として掴む事も出来なければ、物体にも記録にもなつてゐない、言葉にもなつてゐないやうな心意の現象があると、さう言ふ事を言はれてをりますが、さう言ふものゝ伝承、仮に、心意伝承と名前を付けて置きます。この分け方にも、だん/\議論が出て来ますし、まう少し小さい分類は、私もしてをりますけれども、この場合はこれだけに止めてよからうと思ひます。此処では言葉を以つてする伝承、言語伝承と言ふものに就いて申上げて行きます。
私共が口の上で扱つてゐるものが、総べて国語だと、かう見ていゝと思ひますが、まう少し、生命をもつて、と言ふ風に、それに附け加へて置いた方がいゝかも知れません。だから我々が口で言つてをつても、教場なんかで喋つてゐるやうな外国語と言ふものは、死んでゐるんですから、国語ではないのです。同時に、外国人と話をするとき使つてゐる言葉は、我々の本当の生活ではないのですから、つまり一種の変態の生活なのですから、まう少し上手に言つた方がいゝかも知れませんけれども、兎も角も、一時の現象なのですから、生きた生活とは言へません。その他に、我々が普通の日本語を以て意志を発表してゐる時、その間にはさんでくるものは、どんなものでも皆国語の訣です。譬へば、日本語の話の中に、英語や独逸語をまぜてゐるとしましても、その外国語は、英国人の英語、独逸人の独逸語そのまゝの意味をもつて、我々は使つてゐるのではない。我々が本当にそのまゝ、正確な意味をもつて使つてゐるなら、これは学術語でせう、或は専門語でせう。我々の日常の言葉ではありません。我々が日常の言葉として使つてゐる場合、我々はその言葉を我々のうちに生かしてゐる。出来るだけ我々は聯想を働し、我々の心持ちでその言葉の内容を分解し、理会して使つてゐるのです。形は如何に外国語であつても、純然たる日本語になつてゐるもの、と私は見てをります。
我々がこの外国語を取入れる時、一番困る事は、我々が外国語を使つても、外国語そのまゝには決して使つてゐないと言ふ事です。だから発音も変つてゐるし、もつと内的な事実が違つて来るのですから、今申上げたやうに、自分の生活に触れ、自分等の聯想を逞しくし、形は外国語でも、日本的な言葉として内側から向いて来る時は、それを取入れる事は悪い事だとは思ひません。けれども、一番いけない事は、造語能力が減退する事です。非常に造語能力が減退して参ります。だから明治以後の日本人と言ふものは、造語の苦労と言ふ事は殆どしてゐない。或時期は仏教の言葉で苦労して、言葉を作つて来ました。それから、後に仏教の言葉で間に合はぬやうになつて来ると言ふと、辞書から漢字を引き出して、二つ宛くつ附けて行つた。漢語は煉瓦と同じ事ですから、積んで行けば一つのものが出来る。一語々々に意味があるのですから組合せて行けばどんな事でも出来ます。支那人は自分の言葉だから、これは困ると思ひますが、日本人はよその言葉だから鈍感で、どん/\作つて、言葉で導いて行くから、無闇に言葉が出来て来る。それから他に、学術語と言ふものは、別の飜訳語を使ふよりも、原語を使つた方がいゝと言ふ事で原語を使ふのですから、どん/\言語は殖えて来ます。それが次第に、原語でなくてもいゝ事にまで原語を使ふやうになり、しまひには何処の言葉か訣らない、いぎりす[#「いぎりす」に傍線]の言葉か、どいつ[#「どいつ」に傍線]の言葉か、ふらんす[#「ふらんす」に傍線]の言葉か訣らない。それは西洋でもさうでせうけれども、そのまゝになつてしまつてゐる。兎に角、再び繰返しますが、我々が聯想の範囲をば外国の言葉の上で出来るだけ深めてゐると言ふ事は悪いとは思ひませんけれども、造語能力が減退すると言ふ事は、もつといけない事なのです。
これを逆にもつと申しますと、田舎の、ものを知らぬ人々は、――尤も、まるきりものを知らぬと言ふ人は、今では殆ど、なくなつたけれども、兎に角、自分が有識階級でないと言ふ事を知つてゐる連衆《レンジユウ》と言ふものは、気取つた物言ひと言ふ事をしません。だから、方言を見ますと言ふと、一寸漢語がゝつたもの、外国語がゝつた言葉は、何処か必ず、曲つてゐる。知識が浅いから、自然曲つて来るものが沢山ありますが、自分は知識階級ではない、無識階級だと言ふ事を標榜してゐる言葉が沢山あります。我々がはじめ痛感したのは、旅順港が落ちるか落ちないかゞ問題になつてゐた時分、その時分は私共の中学時代ですが、旅順港と言ふ事を言へる人々も、わざ/\じよじゆん[#「じよじゆん」に傍線]港などゝ言つてをりました。それを言へない連衆なんかは旅順の上にまう一つくつ附けて、どでん[#「どでん」に傍線]港なんて言うてゐました。話をしてるから訣りますけれども、話がなかつたならば訣らない。これは旅順港と言ふ言葉が言へないのではない、言へない事はないのですけれど、改つた言ひ方をするのを恥ぢて、わざ/\言葉の形を枉げて使つてゐるのです。
横浜の港が盛んな時には――神戸あたりもさうですけれども、りんがふらんか[#「りんがふらんか」に傍線]と言つて聞き違へて使つたり、発音を間違へて使つたり、又、文字から来る誤りの言葉を使つたりする事がはやりました。兎に角、聞き違へて西洋人の言つた事を言つてゐるのですが、併し、聞き違へが余り沢山の人の耳を通してくると、かう言ふことはやめられないと言ふ、弱点もあるのですね。つまり、聞き違へが、国語に持ち来たされてくるのです。犬のことをかめ[#「かめ」に傍線]と言つたりしますが、これは誤解に定つてゐる。「カム」「カム」と言うて呼んでゐるのをかめ[#「かめ」に傍線]、かめ[#「かめ」に傍線]と聞いてかめ[#「かめ」に傍線]と言ふ名で洋犬を呼ぶんだと言ふやうになつた。さう言ふやうに思ひ違ひもあるけれども、又りもなあで[#「りもなあで」に傍線]をらむね[#「らむね」に傍線]と言ふ例もあります。りもなあで[#「りもなあで」に傍線]とらむね[#「らむね」に傍線]とでは文字で見るとよつぽど違ひますが、兎に角そんなうちにも、始め西洋人の言ふまゝをば、そのまゝ言ふ事を恥ぢる。威張つてゐる奴だ、生意気な奴だとか、小憎らしいと思はれるのが嫌だと思ふから、枉げて言ふ言葉と言ふものがあります。だから、存外人間と言ふものは、どんな無知識な人でも、言葉に対しては非常に細心の注意を払つてゐる事を、思はなければなりません。だから、国語教育の上に於いて、この言葉は東京で行はれてゐる言葉だから、この言葉は国定教科書に書いてある言葉だからいゝ、とやつてしまふのは考へ物です。もつと/\、さう言ふ苦労をば、何でもない人がやつてゐる事もあるのです。
何にしても、かう言ふ風に無茶苦茶に、無闇に、無反省に外国語を持込んで来る事は、いゝことではない。つまり、それは我々が作文を作る時を考へればいゝでせうね。英作文とか、外国の作文を作る時を考へて見ますと、一遍は必ず、日本文に訳してそれを又外国文に訳してゐる。それでは間にあはないでせう。だから、さう言ふ過程を経た会話なんと言ふものは役に立たない。しゆつ/\と出て来るものでなければなりません。併し、それは悪いけれども、同時に我々はこの外国語に対しては、やはりそれと同じ事をやつてゐる。英作文を作る時、又独作文を作る時に一つの形を拵へて見る。日本の文語を拵へる時のやうなそれと似た過程をば、外国語を使ふ時にも、取入れる時にもしてゐるんです。つまり、意味は訣らないけれども飜訳してゐる。近頃はやつてゐる言葉だつて、その言葉を辞書通りに或は西洋人が使つてゐる通りに使つてゐるのではない。自分の心に、飜訳した内容を持たしてその言葉を使つてゐる。だから、その我々が使つてゐる外国語と言ふものは、新しく日本語にだん/\なつてゐる。だから、外国語と言ふものに対しても、簡単にそいつはいけないと言ふ、単なる国粋的なものゝ言ひ方は出来ないですね。
ところが、この言語伝承のうちで、我々が考へなければならぬ態度が三つあります。つまり、時代的に見て行くか、地理的に見て行くかと言ふこと。まあ普通の考へは、この地理観察と時代観察です。時代観察をすると言ふ事は、言語史的、つまり、国語史的に見て行くと言ふ事です。地理観察と言へば、まあ方言風に見て行くと言ふ事になります。併し、それと同時に、階級を基礎として観て行くと言ふ見方があると存じます。
どうも私共の考へでは、尚幾度も考へ直さなければなりませんが、日本の様な国で階級と言うては、不適当かも知れませんけれども、兎に角、階級に似たものが幾つもあつて、それが各々お互ひに、その位置を認めてゐた。さう言ふ風に、位置を認め合つて居た歴史が古いのですから、先づ、階級的な観察と言ふものをば認めて、之を、この民間伝承に加へていゝと思ひます。言葉の場合もさうです。国語をば階級的に観察して見る。それはやはり歴史的になるんです。どの時代にどの階級が勢力を持つてをつたか、つまり、どの時代は、その時代のどの階級に依つて、舞台が廻されてをつたかと言ふ事です。これは政治ではありません。政治的に言ふと存外微力な階級で、従つてその実際生活の微力な階級が、つまり、言ひ換へますれば、実際生活に何の印象をも止めなかつた、止めずに済んだ階級が、その舞台を廻してゐたやうなことがあります。実際さう言ふ風に舞台を廻して居つた階級と言ふものがあるのですから、さう言ふ階級の伝承した全体の知識と言ふものは、必ず、その時代に大きな働きを与へてゐる。大きな影響を与へてゐる。だから、さう言ふ階級と言ふものを、よく観察して行つたらどうだらうか。かう言ふ風に思つてをります。これは国文学
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