たものだとは、私は思ひません。やはり以前からつなぎがあつての事に違ひない。つなぎは一時的に切れてをつても、何等かの連続があつたのだらうと想像せられます。それですから、平安朝の文章でも、我々は訣ると思つて解釈してゐるから訣つてゐるのですけれども、本当に見ると、やはり訣りません。訣らぬところがあります。併し、訣らぬ事が我々の考へ方で考へて行くと、やはり訣つて来るのです。
時間も余りありませんので、短く簡単に進めますから、例を引いて申します。一寸散文では適切な例を引く事が出来ませんけれども、あの竹取物語だつて訣らぬ処が沢山ある。誰が見ても本当に見て解釈出来ない処がある。伊勢物語にしても、やはり訣らぬ処があるのです。ところが、訣らぬ処は、必ず、なんか昔の歌の伝へられてゐる処です。昔あつた歌の一部を修正して、伝へてゐる処があるのです。さうすると、歌の形が変つて来る訣ですが、その歌に合ふやうに、その歌の出来た事情を拵へて来る。諺と同じ事です。「おもひあらば、葎の宿に、ねもしなん。ひじきものには、袖をしつゝも」と言ふ歌が、伊勢物語の始めの方にあります。「思ひあらば寝もしなん」はをかしい、「思ひなくは
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