時が過ぎて、鎌倉室町あたりになると、上手になつて来る。古事記なんか御覧になりましても、漢字の表現、漢文の表現法と、日本の国語の表現法とを、どこまで調和さして行けるかと言ふ工夫なのでせう。ですから、それを全部、日本語で読んでしまふのも考へものです。さうして、自然どうしても読めない処も出て来るだらうと思ひます。本居宣長先生は、勝れた人ですから、それをどうなりかうなり読んで参りましたが、万葉集なんか、形式の上から見ますと、やはりこれは漢文の形式の上に、どれだけ国語が盛れるかと言ふ事をやつてゐるのです。それから、出来るだけ詩に見えるやうにしようと言ふ工夫と、字を出来るだけ少くして書き表す、見た目はまるで漢詩を見るやうな感じを表さうと言ふやうな事もやつてをります。平安朝で残つてゐるものは、主に女房の書いた日記、物語ですけれども、併し、一方に男の書いた日記、或は日記と同類のものが行はれてをります。そして女の文学の勢力がなくなり、女文字の勢力がなくなつた鎌倉になると、それが表面に出て行はれて、漢文、つまり、日本語と漢語とが揉み合ひをしてゐるやうな文章が行はれ、これと国文との二つが並行して行くのです。
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