るのですけれども、私の場合はさうではないやうに思ひます。国語の方から民俗学の方に歩み寄つてゐることもあるし、民俗学の方から国語の方に歩み寄つてゐる風なところもあつて、両方から行つてゐる、さう言ふ風です。
どうも我々は、何時も、申したり書いたりすることが、古代に偏し過ぎてゐます。これは自分等の知識の偏りなんです。知識が古代に偏つてをりますから、古代の事だつたら解釈がつき易い。古代の事だつたら、直ぐに豊富に――豊富にと言つては恥しいですけれど、まあ貧弱乍ら豊富に出て来る。又近代の事でもやはり幾らか潤沢にあるんですが、中世の事だと、もうほんの岩間の滴りのやうにしか、浸み出て来ません。一つの研究に対して、どつと押寄せて来る、殺到して来るやうな知識がなければ、本当の研究だとは言ひ得ないですね。かう言ふ材料を集めてみよう、と言ふやうな、まるで、大学を卒業しようとする者が、卒業論文を書いてゐるやうな態度では――今の大学の卒業生達はそんな者ばかりではありませんけれども――生きた研究者の本当の態度ではないのです。一つの研究に対して、色々な材料が集つて来ると言ふのでないと、生きた研究には、本当はならないの
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