にもなつてゐた頃である。だから、野のふる草と言へば、其処にこもつた懐しい記憶あるべき男女を思ひ浮べ、新草を見れば、其伸び盛る筈の日に待ち心を抱く若い村人の俤がちらつく。さうした時代の人々共有の情趣に叶ふものである。ふる草・新草で、此だけの聯想を起しても、私はをかしくないと思ふ。
[#ここから2字下げ]
武蔵野は(春日野は〔古今集〕)今日は勿《ナ》焼きそ。わかくさの つまもこもれり。われもこもれり(伊勢物語)
[#ここで字下げ終わり]
一世紀は遅れてゐるはずの此歌を見ても、同じ感じ方を、説明を細やかにしてゐるだけの違ひなのに気がつくであらう。「つまもこもれり。われもこもれり」と言ふだけが、後代風なのだ。「わかくさも古草もまじつてゐて、娯《たの》しい時を思はせてゐる」と言うた表現が、更に文学的に展開した構想の痕が見える。若草を枕詞に転じた対句のぐあひを見ても「おもしろき野」の歌が、近代化すれば、かうなつて行くであらうと言ふことは考へられる筈だ。
殊に、若草を見ても、寝よげなる触覚を空想する癖の引き続いてゐる時代ではある。此若草の伸び揃うた時、其若草の陰に隠れた事を思ふのに、野守りは春野を焼
前へ
次へ
全30ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング