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わすれ草、我が紐につく。香具山のふりにし里を、忘れぬがため(万葉集巻三)
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大伴[#(ノ)]旅人の此歌と、おなじ風である。「忘れない様にと望んで……」と説くのが尤《もつとも》らしいが、忘れる為のわすれ草[#「わすれ草」に傍線]を、印象的に第一に出して居る。其故「忘れない為に忘れようと思つて……」と言ふ義に極められるのである。
此場合は間違ふ人もない筈だが、一応は反対論も作つて見ねばならない。ところが尚問題がある。「古草のなかまに入れて(まじり)新草まで焼くな。新草は生ふべくあるに」と言ふやうにも、とれることだ。むづかしい様だが、此は言へる事である。「古草に新草まじり、おもしろき野をば勿《ナ》焼きそ。生ひば生ふるかに……」と転置してみれば正しい解釈なのが知れよう。又、同じ考へ方で「古草に新草まじる様のおもしろい野をよ。其を焼くな。新草は生ふべく見ゆるに」ともとれる。併しさうすると「おもしろき」が、近代的の内容しか持たなくなる。
私はやはり、此「おもしろき」に力点をおいて見てゐる。ふる草、即、去年の草、其に懐しい印象がある。「此ふる草の伸びの盛りに籠つたことのある野、其草かげには、はや新草の生ふべく見えてゐる。去年の如く、又生ひ盛るべき草の野を、焼かうとする人がある。焼くことをやめてくれゝばよいに」と見るのである。少しくどい様だが、かうすれば、此歌の謡はれた理由が出て来る。
二
今の人から見れば、春もやゝ深く、早萌えようとする新草もあるのに、其新らしい草の焼かれる事を思うたもの、草の上にも愛しみの及んだ歌と見たからうが、さういふ洗煉と感傷とは、此時代の人の心にはないものと見るのが、正当である。
ふる草に新草まじる様が、どうして、昔人の鑑賞に入るか。考へられないのである。「生ふるかに」で見ると、まだほんとうに生ひて見えるのではない。だから益《ますます》、おもしろい――今の定義の――理由が訣らぬ。
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佐保川の岸のつかさの柴な刈りそね。ありつゝも 春し来たらば、立ち隠るがね(万葉集巻四)
池の辺の小槻の下の篠《シヌ》な刈りそね。それをだに、君がかたみに、見つゝ偲ばむ(万葉集巻七)
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此らの歌を見ると、草の高い野と言ふと、直に逢ひかたらふ若い男女の幻影を浮べもし、歌の上の類型
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