もしる君」に傍線]・おもしる妹[#「おもしる妹」に傍線]など言ふ「おもしる」の形容詞化したものと考へるのが正しからう。「おもしる」は顔を知つてゐるだけではなく、「なぢみ深い」とか、「なつかしい」とか言ふ事らしい。万葉巻十六の竹取翁の長歌には、「おもしろみ」と「なつかしみ」が対になつてゐる。「おもしろし」も天[#(ノ)]窟戸の物語に、神々の面の著しく明るくなつた事から、あな面白だなど言ふのは、たゞの物語で、語原・意義は別である。「なぢみ深く髣髴著《オモシル》く浮べ得る」と言ふだけの内容はあつたのであらう。
をば[#「をば」に傍線]は、唯の「をば」ではない。「を」と言ふてにをは[#「てにをは」に傍線]すら、古くは、目的格の指辞ではなく、「……よ。其を」「……よ。其に」と言ふ風の感動語尾であつた。其上の語句に、次第に目的格の意識が出て来たので、「を」は目的格を定めるものと考へられて来たのだ。「をば」は殊に、其義を長く失はなかつた語《ことば》で、目的指辞「を[#「を」に傍点]」に「をば」を代へる風は、容易に出ては来なかつたのである。「ば[#「ば」に傍点]」は強い感動語尾であるから、「をば」は、をよ[#「をよ」に傍線]・をや[#「をや」に傍線]など訳して切り、次の語句へすぐさま続けぬ様にせねばならぬ。
「……此野をよ」「……此野なるものをや」など釈いて、現代の語感のためには「をよ。それを……」と言ふ風にでも訳すればよからう。さうすると「懐しい野であることよ。それに、此野を焼かうと言ふのか。……焼いてくれるな」と懐旧の情を起してゐるのであらう。
       古草に新草まじり
「古草に新草まじり……」は二様にとれる。「へた[#「へた」に傍点]に焼いて、古草に新草まじつて生える様な風には焼くな」と言ふ風にとるのが、文法の正面だが、さうはとれない。
「野をばな焼きそ」と印象強く言うてゐるのを見ると、「野」と「な焼きそ」との関係は放されないのである。「野……をよ。其は、……まじり生ふべくある様にと思ふ野なるを焼くな」の義である。「な[#「な」に傍点]」の禁止感は「生ふべく焼くこと」を支配するのではない。「生ふべき為に焼くな」と「焼く」だけにかゝる制止である。
残りの部分を口訳すると「……ふる草にまじつて新草の生えるやうにはからうて、焼かずに居れ。此野の野守りよ」と言ふ事になる。
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