にもなつてゐた頃である。だから、野のふる草と言へば、其処にこもつた懐しい記憶あるべき男女を思ひ浮べ、新草を見れば、其伸び盛る筈の日に待ち心を抱く若い村人の俤がちらつく。さうした時代の人々共有の情趣に叶ふものである。ふる草・新草で、此だけの聯想を起しても、私はをかしくないと思ふ。
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武蔵野は(春日野は〔古今集〕)今日は勿《ナ》焼きそ。わかくさの つまもこもれり。われもこもれり(伊勢物語)
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一世紀は遅れてゐるはずの此歌を見ても、同じ感じ方を、説明を細やかにしてゐるだけの違ひなのに気がつくであらう。「つまもこもれり。われもこもれり」と言ふだけが、後代風なのだ。「わかくさも古草もまじつてゐて、娯《たの》しい時を思はせてゐる」と言うた表現が、更に文学的に展開した構想の痕が見える。若草を枕詞に転じた対句のぐあひを見ても「おもしろき野」の歌が、近代化すれば、かうなつて行くであらうと言ふことは考へられる筈だ。
殊に、若草を見ても、寝よげなる触覚を空想する癖の引き続いてゐる時代ではある。此若草の伸び揃うた時、其若草の陰に隠れた事を思ふのに、野守りは春野を焼きはじめてゐる。娯しい春の野遊びもだめにならうとしてゐる。かうした村の人々の幾代の経験がある。表現の幾多の類型がある。
さう言ふ共有のいろごのみ[#「いろごのみ」に傍線]の心を潤すのに十分である。「おもしろき」一語に、黙会を予期してゐるのである。「をば」に愛惜を籠め、「おもしろき……な焼きそ」の二句を通じて、さうした境遇を理想化し、微かながら美意識に移して実感を柔げた、おほまかな調子を出してゐる。
此は、ある人のある時の痛感でなく、さうした境涯に同化して謡ひ娯しむ人々の間に、自ら孕《はら》まれて来る声であつた。三句四句への移り方なども、茅の帳・芝の毳《カモ》を夢みる様に、鮮やかでゐて、豊かな波をうつて進んでゐる。第五句なども、拍子は転換して結んでゐる。が更に緩やかになつて来てゐる。実感でなく気分だからである。
叙事的な――寧、劇的な民謡も多くある東歌の中に、今一面かうした気分本位の温かい、生活を美化したものもまじつてゐる。つまり、いやが上に刺戟して慰みを感じるのと、未来の世界の俤にも似た「あこがれ」と「やすらひ」との姿を寓した物とがあるのである。
此などは、ふる草を見ておもしろみ[#「
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