》此の頃恋のしげしも(巻十二、二八七七)
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どんな時でも、恋ひ焦れないでゐるといふやうな時はないけれども、あゝ情けない、この数日は恋ひ心で一ぱいになつて了つてゐる、といふ意味である。併し、かう解することが、既に平安朝のうたて[#「うたて」に傍線]に慣れて了つてゐるからかも知れぬ。平安朝の解釈では、うたて[#「うたて」に傍線]を其意味に解いて差支へない。此時分は、他にうたてし[#「うたてし」に傍線]・うたてく[#「うたてく」に傍線](→うたてき)などが出て来る時代である。うたて[#「うたて」に傍線]は近代には色々の形が出てゐるが、昔は整つてゐない。古い所ではうたてあり[#「うたてあり」に傍線]と言ひ、之がうたてし[#「うたてし」に傍線]に代つて来たのである。ともかくも万葉集の歌を、かういふ風に解いて了ふのは、問題であらう。我々の解釈は常に、自分に近い時代の意義を以てしてゐる。つまり現在の意義を、昔の語にあてはめてゆくといふ解き方で、之はどうしても間違ひだと思ふ。万葉集で、そんな意味に使つてゐたか否かは問題である。平安朝と同じ意味に使ふ為には、必ず其間に変化がある筈だからである。
一方にはうたゝあり[#「うたゝあり」に傍線]がある。うたて[#「うたて」に傍線]とうたゝ[#「うたゝ」に傍線]とは同じだといふ気がするが、既に転といふ字をうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と訓んで居る。転をうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と訓む理由のあつた時代がある。宣長の訓は誤りではないであらうが、もう少し考へた方がよかつた、といふ気がするのは其意味に於いてだ。字鏡では漸の字を、さう訓んで居り、状態が転じて、いよ/\甚だしくなつてゆくことをうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と言つた、といふことだけは訣る。だから訓み方は誤りではないが、細かい点に違ふところがある。とにかく、どうにもかうにも訣らぬ様になつたといふ感じをうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と言つて居る。平安朝の例で言ふと、
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思ふことなけれどぬれぬ。我が袖は うたゝある野べの萩の露かな(後拾遺 能因法師)
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之は普通のうたてあり[#「うたてあり」に傍線]の意味では解されない。「物思ひも無いのに袖がぬれた。どう考へても袖のぬれたのが訣らぬ、萩の露よ。」といふので、つまり、ひどい状態は事実だけれども、だん/\進行して行つた点は卒業して了つて居る。たゞひどい、といふ事だ。之で考へると、大抵のうたゝ[#「うたゝ」に傍線]はひどいといふことらしいのである。素戔嗚尊の所でも、嫌なこと、いけない事があつたといふ意味で、さう訓んだのであらうと思ふが、それなら、うたゝあり[#「うたゝあり」に傍線]と訓んだ方が真実に近い。どん/\悪いことをして、どうにもかうにも手におへなくなつて了つた、といふ進行の意味を持つてゐると解して、うたゝあり[#「うたゝあり」に傍線]と訓む方が適切だと思ふ。大長谷王の方の例では、嫌なことを言ふ人だから、といふのは、災ひになる事を言ふ人だといふ意味だが、さう解していゝかどうかは問題である。我々は解釈する以上は、万葉集は万葉集風に、古事記は其を書いた人の思つたであらう風に解きたいものだ。でこゝも、どうもひどい事をいふ人で、といふ位に簡単に解して置いていゝかと思ふ。
八
今一つ考へておかねばならぬことは、日本文の表現法では、昔から副詞の下に言葉を省くのである。万葉集の様な律文になると、之が一層はつきりするが、「うたて……ある」といふところを省いて居る。譬へば、今の例でも、「うたてかたましく物言ふ王なれば」即ち、非常にぐろてすく[#「ぐろてすく」に傍点]な恐ろしい事を言はれる王だから、と言ふ様なことを言つたものに違ひないと思ふ。万葉集に、かうした手法の類例があるのだから、古事記にも無い訣はない。三日月の歌にしても、先に解いた様に、あゝ嫌だ、うとましいといふことではないのかも知れぬ。「何時はなも」の歌になると、少くとも、「恋のしげしも」をうたて[#「うたて」に傍線]が形容して居る。此「うたて此の頃恋のしげしも」を略して言ふと「うたて此の頃」になつて了ふ。類型で始中終、繰返してゐるうちには、又あれかと思ふから、全部言ひ切つて了ふ必要がなくなつてくる。「うたて此の頃」と言へば、「うたて此の頃恋のしげしも」を略した形だと誰の目にも訣る。かう考へて来ると、前の解釈はあれは平安朝流の解釈だといふことが考へられるであらう。かうして重ねて使つてゐる間に、自らうたて[#「うたて」に傍線]の用語例が定つて来る。つまり何時でも類型表現をするから、副詞価値が自然に定まるのだ。同時に、「恋のしげしも」と言はなくても、其が「うたて此の頃」と言つた言葉の中に含
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