古代中世言語論
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)天地《アメツチ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)黒雲|挂《カヽ》り

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)屡※[#二の字点、1−2−22]

 [#…]:返り点
 (例)於[#二]天浮橋[#一]宇岐士摩理

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)豊葦原[#(ノ)]瑞穂[#(ノ)]国
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       一

我国の歴史は、やがて三千年に亘らうとして居る。其間に起つた数多くの文学が、今日の我々にも、大体は訣るといふこと、殊に奈良朝以前の文学などが訣るといふことは、どういふことであらうかと、さういふ懐疑の念を、恐らく、多くの人々は持たれた事があるに違ひない。奈良朝以前のものが、之だけ時代を経た今日の我々に、とにかくに大体に於いてでも訣るといふ事は不思議だけれども、事実訣るのである。此事実に対して、若しも根本から疑うてかゝるならば、現存の文献が、実はそんなに古くは無いものだと考へなければ、解決がつかぬことになる。併し、事実に於いて、奈良朝に、乃至それ以前に、文献はあつたのであるから、此事実の上に疑ひを置いて見るといふことは、我々の疑ひの方が怪しくなつて了ふ。それならば、何故、それが今日の我々に訣るか。言語学を少しでも、修めた者であれば、さういふ現象のあり得べきでない事を信ずるであらうが、訣ることも確かに事実なのだ。此事実は如何に解決すべきであらうか。日本は言霊の幸ふ国だから訣るのだ、といふ様な、そんな簡単なことは言つてゐられない。
もつと、之を狭く考へてみて、古代奈良朝以前の書物に限つて言へば、譬へば、記紀などの成立年代に就いては、誰にでも漠然と、奈良朝に出来たものだと考へられ易い。併し同時に、たとへ書かれたのは奈良朝であつても、其内容を成してゐるものは奈良朝の事でないといふことは、学者でなくとも大抵は訣つて居る。其文章ですらも、奈良朝になつて始めて書かれたものでないといふ部分のあることが訣るのである。万葉集でも、奈良朝に成立したものではあつても、作品は必ずしも奈良朝のものばかりではなく、それ以前のものを伝承して来てゐる作品が多い。之は単に伝承にすぎぬとしても、記紀の文章の中にだけは、一部分は確かに、奈良朝に書かれたのでないものがある。文章全体の構造は、勿論、奈良朝のものではあつても、其中へ部分的に、象嵌の様に、其以前の文章の入つてゐるものが、かなり、あるやうだ。紀の一書曰といふものゝ、或部分は、確かに、書いた物から抜き書してゐる事が訣るが、更に、もう少し違つた状態で古い文章の入つてゐる事の訣るのは、紀の古註とある部分である。之がかなり多い。之を中心としてみると、其辺りへ又、古い文章が集つてゐる様に思へる。記は或点は漢文、或点は和文、又或点は国文脈に漢字を宛てたにすぎぬといふ所もあり、さういふ部分を見てゆくと、歌謡以外の散文の中にも、日本人純粋の古い文章が入つてゐる。出来るだけ後の万葉仮名式のもので書いてゐるか、でなければ和臭の豊かな漢文で書いてゐる。
だから、記紀は出来るだけ漢文訓みで通らうとすれば通れるけれども、最後には、さう言つた和文臭の所があつて、譬へば天地初発之時を「あめつちの初めの時」と訓まねばならぬ様な癖が出来てくるのである。天地初発を、必ず「天地《アメツチ》のはじめ」と訓まなければならぬ事は無いのだが、他の部分々々に、さういふ日本風に訓まなければ訓まれぬ所が入つてゐるから、どうしても、さう訓んで来る事になるのである。之が所謂、紀の日本訓みである。之に導かれて、古事記でも日本訓みが行はれて来る。日本紀の時には、まだ不自然な訓み方であつたものが、記では譬へば、古訓古事記の如きは、非常に巧に訓んで居る。古訓古事記などは、今の我々からは簡単に考へて了ふけれども、よく味はつて見ると、大変な努力と、苦労を重ねて居る事が訣ると思ふ。もどかしく感ずる程、日本風に訓んでゐる。之は勿論、出来るだけ、日本風に訓むのが本道だけれども、それでも最後の障壁がある、といふことだけは、宣長翁も考へてゐなかつた。記の中には、もう一つ前の、古い時代の訓み方が入つてゐることを考へなかつたので、あんな訓み方になつたのである。勿論、平安朝と共通した文章もある訣だが、宣長翁のは、全体が非常に熟達した平安朝の文章の訓みになり過ぎてゐる。平安朝のむーど[#「むーど」に傍点]とてーま[#「てーま」に傍点]の上に立つて、奈良朝の色彩を取込んだ訓み方をせられたのだ、と言つてもいゝ程、平安朝風の表現法があると思ふ。併しあれ程、真面目に熱心に訓まれたのだから、我
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