と」に傍点]ではないのだが、かうした形が進んで来て、自動詞にも、どうしても目的なり対象なりがなければならぬ。つまり有対自動詞といふやうな形が出来て来るのだ。尤、古い人には別の論を立てる人があつて、を[#「を」に傍線]・に[#「に」に傍線]等の助詞は非常にゆるく使はれて居るとも言ふから、或は又他の意味があつたのかも知れぬが、とにかく、自動詞が対象を要求した。其が何時頃かといふことだけは、一寸説明が出来ぬ。何故なら、書物にある一面には、文学が古語を生かしてゆき、そのもう一つ前には、古語を死なしては罪悪だとも思つてゐたのだから、口言葉の上では其がどの位生きて来たかは訣らない。文献の上に生きてゐるといふことが、口の上でも同じ様に生きて来たといふ証拠には、一つもならぬのである。ともかくも自動詞が目的語乃至補足語を取らねばならぬ様になつた結果、寝るをいぬる[#「いぬる」に傍線]、泣くをねなく[#「ねなく」に傍線]と言ふ様になつた。更には、その間に助詞を挿入して、いをぬる[#「いをぬる」に傍線]・ねをなく[#「ねをなく」に傍線]と言ふ言ひ方が出て来たのである。かう考へてくると、今日では、殆ど訣らぬものと諦めてゐる接頭語といふものゝ起源の一つは、こんな所にあつたのではないかと思はせる。
譬へば又、万葉集の中にでも、いろ/\変つた文法の例は多いが、殆ど其がたつた一つの例だ、といふものが多い。たつた一つの残存の例であるから、学問としては、それからどんな意味をも引き出すといふ訣にはゆかず、一つだからと言つて其を捨てゝ了へば、一切訣らなくなつて了ふ。日本語は、先づ何よりも、日本の国のもので研究せねばならぬけれども、いよ/\となると、かうした例に出会ふことが屡※[#二の字点、1−2−22]だ。かういふ現象は、つまりは、沢山あつた語の中で、ある幾つかの発想法に人気が集中して了つて、他は興味を失はれ、忘却された結果であつて、時が経つて、後代から見ると、一つだけ、ぽつんと残つてゐるといふことになるのである。

人麻呂の長歌に「露霜《ツユジモ》の消なば消ぬべく、行く鳥の争ふはしに」(万葉巻二)といふ句がある。露霜といふ語は東北地方にはまだ残つてゐるが、関西では水霜と言つてゐる。消なば[#「消なば」に傍線]を起す序だ。消えさうに、といふことを「消なば消ぬべく」と表現して居る。中世及び近世の文法でならば、たゞ「消ぬべく」と言つていゝ所を、けなば[#「けなば」に傍線]と条件をつけて言つて居る。此類例は、集中に、他にもあつて、「……消なば消ぬかに恋ひ思ふ吾妹」(巻四)などがある。恋ひ焦がれて、自分の体も何も滅入りこんで了つてゐる気持を言つたものだが、此場合でも、「消ぬかに」だけで済むところを、「けなば」といふ条件をつける。かうした例を見てくると、少し種類は異るけれども、いぬ[#「いぬ」に傍線]・ねなく[#「ねなく」に傍線]などと同じく、ある動詞の、単に動詞だけでは意義が完全に出来ぬので、条件をつけねばならぬといふ類のものゝあつた事が訣る。今日では、其を用ゐ慣れて来てゐる結果、条件をつけずとも訣る様になつてゐるといふのに過ぎぬ。動詞だけを出して訣る様になる迄の間には、けなば[#「けなば」に傍線]といふ様な条件をつけて言はなければならぬ時代が、ずつと、あつたのだ。記紀万葉に於いて、条件がなくとも訣るといふ語は、必ずや、かうした経過を通つて来て、熟練した結果であるに違ひない。
かに[#「かに」に傍線]は副詞を受ける語尾だ。初めから句をうけてゐるかに[#「かに」に傍線]があり、単に動詞を受けてゐる様に見えるものなどもあるが、本道の形は、之がついたら副詞句になるのである。「消なば消ぬ」といふ文章――とは言へぬまでも文章に近い形――をかに[#「かに」に傍線]で受けて、副詞句にして了ふ。だから、成立から見れば、消ぬかに[#「消ぬかに」に傍線]と続いた語ではなく、消なば消ぬ[#「消なば消ぬ」に傍線]にかに[#「かに」に傍線]がついたものだ。一部の単語を承けてゐるのではない。消ぬかに[#「消ぬかに」に傍線]の語調を強める為にけなば[#「けなば」に傍線]をつけたと言ふのではないのである。昔の学者も、これに就いては、非常に簡単に説いて了つて居るが、其経過の後に、初めて、けぬかに[#「けぬかに」に傍線]の形が独立して「けぬかに思ほゆ」などといふ言ひ方が出て来るのだ。若し此経路さへ考へることが出来れば、それと同じ道を取つてゐる語の、相当にあることを思はねばならぬ。が、残念なことには、之も亦、一種類の語しか残留して居ない。之が文献にたつた一つ残されて居るといふことは、前に説明した通り、文献以前の文学の所為で、何かの理由で、此語だけが評判を得たからである。たつた一例だから駄目だと言ふなら、他を説明
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