る態度が見られる。
譬へば、瓊瓊杵尊が御成人遊されて、葦原の中つ国にお降しなされても差支へない事になつた時(記では、お降りになる時は緑児であらせられたかの如くに記述してゐるが)、天降りの御様子を叙した一節に、記には、「於[#二]天浮橋[#一]宇岐士摩理、蘇理多多斯弖[#ここから割り注]自宇以下十一字亦以音[#ここで割り注終わり]」とある。紀では本書と一書とに二ヶ所出てゐて「立[#二]於浮渚在平処[#一]」と書き、之を古註に「羽企爾磨梨他毘邏而陀々志」としてゐる。紀を書いた折に加へられたものであるとすれば、紀はさう訓むつもりで書いた、といふことになるが、どうもこの古註は、後からのものであることを見せてゐるやうだ。さう訓むのなら、こんな宛て方は甚だ下手である。他の所は、もつと上手に宛てゝゐる。更に一書には「浮島なる」とも訓まして居るが、ともかく時代の相違はあるけれども、記紀でこの二つの訓み方が両立して居り、紀の方に別訓の伝へがある、といふことになる。もとは、記と紀では殆ど一つで、ごく小部分の伝へだけが違つてゐるのかも知れぬ。たゞ我々には、之を本道に訓むことが出来ぬ為に、両立してゐる様に見えるが、必ずしも、古註の訓み方が正しいとも言はれない。ともかく、かういふ風に訣らないながらに、前代からの訓み方を伝へようとして居る。其も昔の人にはこれで訣つてゐたのであらうが、我々に訣らぬといふだけのことだ。此まゝに訓めば、浮いてゐる島の様な、平地の所にお立ちになつて、といふ意味であるらしい事は感ぜられるが、はつきりした訓法は結局訣らない。
ともかくも、こんな風にして、記紀では古語を保存しようとしてゐたのである。恐らくは此時代、既に訣らなくて、二通りにも三通りにも伝はつてゐたのではあらうが、同じく訣らぬとは言つても、歌の伝来に記紀で相異がある、といふのとは、事情が違つて居る。尤、場合によれば、其と同じ理由から違つて居るといふ事もあるにはあつたらう。が、大体に於いては、後世の我々には訣らぬけれども、昔の人には訣つたのだ、と思ふ方が正しいであらう。併しながら又、或は記紀を書いた人に既に訣らなかつたものがあつた、といふことも考へてみなければならぬ。誰も口にせぬ様な語り物、わづかに語部の一人や二人が、辛うじて伝承して居るに過ぎぬ様な、実質的には死んで了つてゐる物語を、訣らないけれどもそのまゝ転載
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