気分式の解釈ではあるが、之を重ねて来て、結局は、我々の信頼するに足る解釈を出して来る。我々の感ずるよりは、もつと時代の感覚が近かつたのだから、気分式に訓んでも自ら中核に迫るものがあつたのだ。今の我々の様になると、もはや、さうした気分では押してゆかれず、理論的に、文法や語原の上に立つてやつてゆくより仕方がない様になつてゐる。
二
古詞章を書物に書いて、遺さうとするのは、古詞章の盛んに行はれてゐる時よりは、やゝ時代が遅れてからである。而も古い文章を書くといふ事は、たゞ単にそのまゝ書くのでは無く、書く其人の若干の理会を土台として書いてゆく。而も其理会の根本に、気分式な情緒本位のものが交らずにゐる筈がないとなれば、原《モト》の古詞章よりは、大分変つたものになる訣である。大体、昔の文章といふものは、誰が見ても訣つてゐる間はよいけれども、少しでも訣らぬ様になれば、多少の改作はしてでも、之を理会出来る様にしてゆかねばならぬ。ところが、改作をしても何ら差支へのない箇所と、絶対に、之だけは改作の筆を入れる事の出来ぬ、といふ箇所とがある。即、神々のこと、宮廷のこと、神聖な歌謡・諺などは、之を勝手に改めては、神に対し、聖言に対して罪悪を犯すことになる、と観じた。で、たとへ誰の目にも訣らなくならうとも、手を触れる事が出来ぬ。併しこれも実際に於いては、少しづゝ目に見えぬ変化は続けてゐるかも知れず、変化する場合と、しない場合とが入り交つて居る。譬へば、記に特に多いのは、「此二字以音」といふ様な風に訓み方を指定してゐる箇所だが、之などは、古語をそのまゝに保存せんとしたものであり、又場合によると、上声・去声など、あくせんと[#「あくせんと」に傍点]の符号をつけてゐるのもある。更には漢文の点読を利用して、出来るだけ、古文体に訓ませようとしてゐる。もと/\日本語を知らなければ訓めぬ訣だが、大体に於いて日本語を知つてゐる人なら、そんな風に返り点で訓めば、古い文章と同じ様に訓めると思ひ、其に縋つて、点読で日本風に訓まうとしてゐるのだ。万葉集を見ても、助動詞やてには[#「てには」に傍点]などを省いて了つて、此程度で訓めるであらうといふ所まで迫つて行つて居る。表現法に差支へない限り、手を抜かうとした訣だ。ともかくも、記には、前代から伝つて来てゐる古詞章を入れて、之を保存し、伝承しようとして居
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