々は、其後を少し許りづゝ修正してゆけば、奈良朝の古事記の訓み方に近よつてゆけると思ふ。とにかく、宣長翁の訓み方そのまゝでは、奈良朝の文脈で訓んでゐる事にはならぬのである。

記紀の中に、象嵌の様に、古詞章が入れられてゐるといふ事は、何を意味するか。結論だけを、簡単に出すと、即ち其は非常に重大なる箇所であつて、其を失つたら、神乃至は宮廷の神聖に対して、申訣がたゝぬといふ気持があつたからの事であらう。この暗黙の制約がもしなかつたら、古事記などは、もつと漢文流にゆけた筈であつた。一体、昔の人の書き残した文章が、どうして後世の人たちにそのまゝ訣るかといふことは、考へて見るべき問題である。記紀にしても、江戸時代の学者に研究せられて後、始めて訣つて来たのではない。特に日本紀などは、恐らく、其編纂の直後から講筵が始つてゐる(紀の講筵は平安朝に入つてからだといふ説もあるが、私は、編纂後、間もなく始まつて居ると思ふ)。以来、度々、其時代々々の博士たちが、訣る様な程度に訓んでゐる。かうして、理会を失はぬ歴史として持ち伝へたのであつて、古事記の方では、それがはつきりと文献の上に現はれてゐないといふだけである。源氏物語などにしても、今日尚、読んで訣るといふのは、其間の長い歳月に亘つて、ずつと愛読を続けて来たからで、源氏の完成せられたかせぬかの中に、もう筆写の仕事は始められて居る。鎌倉から室町へかけて、註釈書は、断片的にでも出来て来て居り、やがては其講釈が始つて来る。さうした結果、今日の我々にでも、殆ど余す所なく、之が訣るのである。かうした幸福な状態といふものは、誠に珍らしいことで、さういふ意味で、古人には大いに感謝しなければならぬ。古事記でも、かうして源氏の読まれて来た経過に似た、歴史は持つて居るに違ひない。
だが、昔の人の書物の訓み方といふものは、古い註釈を見てみると、万葉集でも源氏でも、古い物ほど気分式の訓み方や解釈をしてゐる。中には、今の我々から見て、吹き出したくなる様な種類のものさへある。譬へば万葉集では、
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矢釣山木立も見えず降り乱る雪驪あした楽しも(巻三、二六二)
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など、「雪のまだらごま、朝《アシタ》楽しも」などと訓んでゐて、何の事だか、噴飯に堪へぬといふ様な訓み方だ。訣らなくても、気分で、そんな風に訓んで了ふのである。かうして、
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