、記紀の文章の中にだけは、一部分は確かに、奈良朝に書かれたのでないものがある。文章全体の構造は、勿論、奈良朝のものではあつても、其中へ部分的に、象嵌の様に、其以前の文章の入つてゐるものが、かなり、あるやうだ。紀の一書曰といふものゝ、或部分は、確かに、書いた物から抜き書してゐる事が訣るが、更に、もう少し違つた状態で古い文章の入つてゐる事の訣るのは、紀の古註とある部分である。之がかなり多い。之を中心としてみると、其辺りへ又、古い文章が集つてゐる様に思へる。記は或点は漢文、或点は和文、又或点は国文脈に漢字を宛てたにすぎぬといふ所もあり、さういふ部分を見てゆくと、歌謡以外の散文の中にも、日本人純粋の古い文章が入つてゐる。出来るだけ後の万葉仮名式のもので書いてゐるか、でなければ和臭の豊かな漢文で書いてゐる。
だから、記紀は出来るだけ漢文訓みで通らうとすれば通れるけれども、最後には、さう言つた和文臭の所があつて、譬へば天地初発之時を「あめつちの初めの時」と訓まねばならぬ様な癖が出来てくるのである。天地初発を、必ず「天地《アメツチ》のはじめ」と訓まなければならぬ事は無いのだが、他の部分々々に、さういふ日本風に訓まなければ訓まれぬ所が入つてゐるから、どうしても、さう訓んで来る事になるのである。之が所謂、紀の日本訓みである。之に導かれて、古事記でも日本訓みが行はれて来る。日本紀の時には、まだ不自然な訓み方であつたものが、記では譬へば、古訓古事記の如きは、非常に巧に訓んで居る。古訓古事記などは、今の我々からは簡単に考へて了ふけれども、よく味はつて見ると、大変な努力と、苦労を重ねて居る事が訣ると思ふ。もどかしく感ずる程、日本風に訓んでゐる。之は勿論、出来るだけ、日本風に訓むのが本道だけれども、それでも最後の障壁がある、といふことだけは、宣長翁も考へてゐなかつた。記の中には、もう一つ前の、古い時代の訓み方が入つてゐることを考へなかつたので、あんな訓み方になつたのである。勿論、平安朝と共通した文章もある訣だが、宣長翁のは、全体が非常に熟達した平安朝の文章の訓みになり過ぎてゐる。平安朝のむーど[#「むーど」に傍点]とてーま[#「てーま」に傍点]の上に立つて、奈良朝の色彩を取込んだ訓み方をせられたのだ、と言つてもいゝ程、平安朝風の表現法があると思ふ。併しあれ程、真面目に熱心に訓まれたのだから、我
前へ
次へ
全33ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング