[#「あり」に傍線]を省いてゐる言葉と訣つてゐるのに、「……であるのに、それにも拘らず」といふ意味に用ゐて来る。
ね[#「ね」に傍線]といふ語も之と同じで、「人こそ知らね[#「知らね」に傍線]かわく間もなし」などは、この法としては、知らね[#「知らね」に傍線]で切れる筈であるのに、下の語に続いて居る。
かういふ現象は、長い間の習慣の結果である。万葉集のなくに[#「なくに」に傍線]の中に、「……なのに」などと訳さねばならない用法があるのは、意義の変化、聯想の変化であつて、少くとも此変化だけは知つておかねばならぬ。平安朝に入つては、もうあり[#「あり」に傍線]の下についてゐた事を忘れて了つて、悉くが、「……なのに」の使ひ方になつて了ふ。
かうした例は、まだ多くあるが、もう一つあげてみると、例へば我々が、ゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]などと言つてゐる言葉は、本道はゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]だけで完全な意味があるのではない。少くとも奈良朝からあるが、これは宗教的な言葉で、言ふことも慎しまれるといふ気持である。全体に、副詞は抽象的で概念的なものが多いが、此言葉も非常に抽象的な言葉だから、具体的な意味を持つた語を中に入れなければ完全にはならないのだ。一旦入れたものを、使ひ慣れて来るうちには又、省いて、其語だけで、代表させるやうになるから、自然に独立して来る。「ぞつとする程……である」と言ふ意味の言葉が変化して、ゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]とだけ言へば「ぞつとする程に……」といふ意味になつてくる。其が更に、「ぞつとする程にいけない[#「いけない」に傍点]」意味をも分派してゆくのである。
この経路と事情とは、あはれ[#「あはれ」に傍線]の語に就いても言へると思ふ。あはれ[#「あはれ」に傍線]などは、伝説の上では高天原以来の語であると信じて居るが、恐らくさうでもあるまい。一体、日本の言語だけから考へても、日本の民族の歴史は、短くはないと思はれる。この言語の長さが、果してこの国土に移り住んでからのものであるか、或はその以前の国土に居つた時からの続きであるかは訣らぬが、ともかくも、言語だけを見ても、紀元年数などよりは遥に古いといふ感じがする。其はともかくとして、あはれ[#「あはれ」に傍線]は果して始めから色々な内容を持つてゐたかどうか。恐らく当初は、感動の語として単純なものであつたのを、
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