い時代には、此略語といふ現象が、相当に多い。今残つて居る語を見ても、昔の音のまゝで、たゞ様式が少しゆがんで来てゐるのだ、と決めてかゝると訣らないものが多い。昔でも、既に、出来てゐる語を略して了ふことが多かつたらしく、譬へば祝詞・宣命に出て来る「かむながら」といふ語である。(宣命は奈良朝まで上れるが、祝詞全文はそこまでは上れぬ。祝詞には所々に象嵌があつて、全部が奈良朝のものとは信ぜられぬ。併し、其象嵌でない部分を見出すことは、研究次第で出来る。)此語は、非常に意味が拡がつて、結局、訣らぬ様になつて了つて居る。天子の、此世の中をお治めになる御行状を惟神と見て居り、「かむながらおもほしめす」などと使つてゐるが、此用語例も、既に末期のものであらうと思はれる。宣命は最古いものだが、之ですら、もう擬古的の使ひ方をしてゐる様だ。惟神とは、天子御自らのお気持を表はすものではない。「自分のすることは、自分がするのではなくて、神がなさるのだ」といふ風の条件を、御自分の行状につけて、仰言《おつしや》つてゐられる事に使ふのであり、天子が臣下にお下しになるお言葉には、必ずくつついてゐた語に違ひない。「この自分の言つてゐることは、神が言つてゐるのだぞ」と仰言られる訣だ。之が大抵の場合は惟神だけで、すぐ其後につくべき動詞を省いて居る。万葉集などでも、矢張、既に末の用法で、非常に自由に使つて居る。さうして組織の違ふかむから[#「かむから」に傍線]などいふ語に近づいて行つてさへ居るのである。本来は、「惟神……する」と言はねばならぬのを、始中終使つてゐるうちには深い内容を自ら蔵して来る故に、惟神とだけ言へば、その持つてゐる内容は訣つて了ふ。「惟神の道」といふ語には、だから、非常な飛躍がある訣で、たゞ惟神といふ単語を、いくら解剖してみた所で、ある点までしか訣らない。もう一つ例を挙げると、をす国[#「をす国」に傍線]といふ使ひ方がある。をす[#「をす」に傍線]は食ふの敬語で、非常に広い用語例を持つて来て居るが、之は単なる敬語では決してない。天子が天上から此国へ下つておいでになつた真の意義はどこにあるかといふと、天の神のおあがりになる米をお作りになるのが御使命であらせられた。此事を人間的に解釈すれば、天の下を自分のお国になされる為にお出でになつたとなるが、要するに神の御田をお作りになるのである。つまり、天[
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