を直線状のものとして置けば、途中に訣らなくなつた箇所の出て来るまゝ、改作し/\して、結局は波状線の様な、瘤のある文章になる訣だが、必要に応じての、必然的な改作なのだから、原《モト》の文章も、改作した文章も同じだと思つて居る。それは一つには、昔から言葉の威力を信じたので、(1)が神聖ならば、同様に、(N)も神聖なものだ、と考へてゐるからのことでもあつた。――――[#「――――」に「原詞章」の注記](1)―・―・―[#「―・―・―」に「・訣らぬ所」の注記](2)※[#「ジグザグの線」、311−11](3)〜〜〜〜(N)かういつた瘤のある文章が、今ある祝詞だとは思はぬが、ともかくも、よほど原詞章とは変つて来てゐるに違ひない。同じ延喜式の中でも、平安朝に出来た、宮廷の簡単なものと、古いものとを比較してみると、大体の文章は同じで、古いものには、所々に難しい古い文章詞句が入つてゐる、といふだけの相違である。つまり、瘤状を為してゐる部分と、直線の部分とが、我々には考へられる訣だが、当時の人には、此相違は相違でなかつたのである。
とにかく、古詞章は出来るだけ、訣る様にしようと考へ、又、実際にさうして来てもゐるので、昔のものを読んで見ても、我々の予期する程は、古い言葉・古い文章には出会はない。記紀を見ても、我々の知らぬ様な事ばつかり書いてあるのかと思つてゐると、案外なのに愕ろくくらゐで、つまりは、本道の古詞章が、さうした古典にもだん/\亡くなつて来て居る。既に奈良朝の人々に訣る程度に、改められて来てゐるのであつて、其なら我々にも理会し易いといふ事になる。而も、其に加へて漢文の助けがある。漢文脈に縋つて表現してゐるので、大体の事は訣つてゆくのだ。
だから、此話をだん/\進めてゆくと、我々の古く持つてゐた文章が、純然たる口語であつたといふ時代は、決して考へられぬ。即、昔からある言葉を土台として、この文章が出来て居り、其文章の最肝要な所が古語で、其周囲に訣ることをつけ足してゆく。かういふ現象を考へてみると、先づ、我々が人に話す口言葉は、その喋つた当座に消えて了ひ、書いたものは何時までも残つてゆくが、昔はこの両者の中間に、もう一つ、記憶せられる言葉といふものがあつた。単なる口の言葉は記憶せられず、又、書く言葉の方は、よほど文化が進んでから後のことである。とにかく、口言葉ではなくて、記憶せられ
前へ 次へ
全33ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング