主は、昔の斎主《イハヒヌシ》に当るものである。神其ものが神主で、神職は斎主の地位に下つたのである。神祭りの時には、主上は神主であると同時に、まれびと[#「まれびと」に傍線]であつて、非常に神秘なことである。だから結局、自問自答の形式も、お在りになることゝ察せられる。今日の我々の、窺ふことの出来ない、不思議なことであるが、此が当然の事と考へられてゐた。只今から考へると、矛盾が沢山あるが、古代生活の感情の上の論理では、差し支へがなかつたのである。比論法の誤りに陥つてゐるが、此が日本の、根本の論理である。
天竺の因明《インミヤウ》が、日本に渡り、又支那から、新しい衣を著た因明が、輸入せられて、支那風と、仏教其まゝの論理学とが、日本古来の論理を訂正して来たが、其処に、矛盾を生じて来た。暦法の上でも、新・旧・一月おくれの三通りの暦を、平気で用ゐて、矛盾したことをしてゐる。最後に這入つて来たのが、西洋の論理学――此とても、天竺の因明が、希臘に這入つて、変化したものに違ひないが――であつた。
この因明的の考へ方で言ふと、日本古代の論理は、感情の論理である。外国の論理学が這入つて来なかつたら、別の論理学が、成立してゐたかも知れない。前述のことも、現代の環境・論理で考へるから、不思議なのである。此は、大切な問題だとおもふ。
日本の信仰には、女神の信仰があるが、私の考へでは、女神は皆、もとは巫女であつた。此処に、永久に論断を下すことの出来ない仮説を申してみると、天照大神も最高至尊の地位にあらせられた、女神である。この仮説への道筋を述べて見よう。
記・紀を見ると、天照大神の蔭にかくれてゐる神がある。たかみむすび[#「たかみむすび」に傍線]の神(たかぎ[#「たかぎ」に傍線]の神とも)と言ふ神である。何の為に、此神が必要なのであらうか。日本の古い神道で、此事を考へなければならない理由がある。此神が何時も、天照大神の相談相手になつてゐられる。天照大神は、日の神ではなく、おほひるめむち[#「おほひるめむち」に傍線]の神であつた。
此神には、おほひるめ[#「おほひるめ」に傍線]の神・わかひるめ[#「わかひるめ」に傍線]の神と二種あつて、前者は御一方、後者は沢山あつた。すさのを[#「すさのを」に傍線]の命が、斑馬の皮を斎服殿《イミハタドノ》に投げ込まれた時に、気絶したのは、わかひるめ[#「わかひるめ」に傍線]の神であつた(日本紀一書)。
ひるめ[#「ひるめ」に傍線]と言ふのは、日の妻《メ》即、日の神の妻《メ》・后と言ふことである。ひるめ[#「ひるめ」に傍線]のる[#「る」に傍線]は、の[#「の」に傍線]である。水の神の后を、みぬめ[#「みぬめ」に傍線]又は、みるめ[#「みるめ」に傍線]と言ふのと同じである。
出雲国造|神賀詞《カムヨゴト》に、
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|此方[#(能)]《コチカタノ》|古川岸[#(爾)]《フルカハギシニ》生立《オヒタテル》|若水沼間[#(能)]《ワカミヌマノ》……
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と見えてゐる。神賀詞自身「若水沼間」を植物と解してゐる。日本紀の神功皇后の巻には、みづは[#「みづは」に傍線]とあつて、みづ/″\しい草葉のことになつてゐるが、よく討ねて見ると、水の神に仕へる、女の神の名前であつて、同時に、禊ぎの時に、何時も出て来る神であつた。みぬめ[#「みぬめ」に傍線]又はみるめ[#「みるめ」に傍線]で、水の妻即、水の神の后である。即ひるめ[#「ひるめ」に傍線]は、疑ひもなく、日の神の后の意であらう。
其が次第に、信仰が変つて来ると、日の神に仕へてゐる最尊貴な、神聖な神の后を、神と考へる様になつた。私の考へでは、天照大神も、かうした意味の神である。此点で、社々にある姫神と、同じに考へることが出来ようと思ふ。神典を見ても、大神は始終、たかみむすび[#「たかみむすび」に傍線]の神に御相談なさつていらせられる。此たかぎ[#「たかぎ」に傍線]の神が、日の神かどうかは、此処では触れないでおく。
八 語原論の改革
今の一例でも訣るやうに、記・紀・万葉その他の語の研究は、まう一度、根本から、やり直さなければならないと思ふ。訣つてゐる、と思うてゐる語も、冷やかに考へ直して見ると、訣らないで、通つてゐることが多い。此は、語原的の説明が、あやふやだからである。学者がかうだ、と説明する以前に、学者が疑ふことが出来ない程、昔から確かに、信ぜられて来た伝へがある。こゝで最初から、語原論をやり直す必要がある。
今日までの語原論は、奈良朝を出発点として、其以後の言葉で調べてゐるが、日本の言葉には、もつと古い歴史が見られる。何と言うても、古代研究には、材料が乏しい。諸外国の民俗と比較し、日本の書物に残つてゐる、古語・死語の解剖――尤、此には危険が伴ふが、今一度、新しく通らねばならない、大切な手段である――をして見なくては、日本の語原論は、奈良朝まで行けば、先は闇である。
現在正しいと信ぜられてゐる語原説も、学問の進歩によつて、変つて、行かなければならない。譬へば「津」と言ふ語は、一般に渡り場と考へられてゐるが、古くは、津と言はずに、御津《ミツ》と書いてゐる。此はどうも、神に関係のある語らしい。用語例を集めて見ると、御津は大抵、貴い方の、禊ぎをなさる場所を斥してゐる。「津」に「御」と言ふ敬語がついた、と考へられ易いが、みつ[#「みつ」に傍線]は、神聖な水と言ふこと、つまりみつ[#「みつ」に傍線]とみづ[#「みづ」に傍線]とは、同じことである。
大昔は、水は神聖な、常世国から来て、此を使ふ人を、若返らせたものであつた。其水の来る場所は、定つてゐた。天皇の禊ぎをなさる場所、又なさつてはならない場所といふものが、定つてゐた。神聖な液体がみづ[#「みづ」に傍線]であり、その或時期に来る場所をみつ[#「みつ」に傍線]と言ふ。みつ[#「みつ」に傍線]は大抵海岸で、御津と書かれてゐる。後に、其意味が訣らなくなると、言葉の感じが変つて来て、「御」を敬語と考へ「津《ツ》」を独立させて了うて、支那の津《シン》の意味に、文字の上から聯想して来たのである。昔の人も、合理的に、よい加減に考へてゐた。
合理とは、らしよなりずむ[#「らしよなりずむ」に傍線]の訳であるが、合理と言ふことはいけないことで、無理に理くつに合せ、都合のよい理くつをつけ、無理に理くつに叶はせると言ふことで、此は、合理の意味の用ゐ方が違うてゐる。尤近頃では、好ましい用語例を持つて来た様である。ともかく、みつ[#「みつ」に傍線]も、其合理的な考へ方によつて、み[#「み」に傍点]は敬語、つ[#「つ」に傍点]は船どまり場だ、と言うてゐるが、其は、支那の文字の「津《シン》」の説明にはなつても、日本のつ[#「つ」に傍点]の説明にはならない。
摂津国をつ[#「つ」に傍線]の国と言うたのは、禊ぎの国として、最大切な国であつた為である。
仁徳天皇の皇后いはのひめ[#「いはのひめ」に傍線]の命《ミコト》は、嫉妬深い方であるが、或時|御綱柏《ミツナガシハ》を採りに、紀の国に行かれた間に、天皇がやたのわきいらつめ[#「やたのわきいらつめ」に傍線]を宮殿に入れられた、とお聴きになり、非常に恨み怒られて、船に積んでゐた御綱柏を、悉く海に投げ込まれたので、其処を御津の崎と言ふ、といふ話があるが、この御綱柏と言ふのは、禊ぎに使ふ柏、と言ふことである。いはのひめ[#「いはのひめ」に傍線]は、他氏出の后である。この他氏出の后といふのは、天皇に禊ぎをすゝめる方である。
九 伝襲的学説
この様に、段々探ると、今までの語原論・伝襲的学説は、次第に破られてゆく。国学の四大人は、其時代のあらゆる知識を利用して、研究されたのである。我々の時代には、又、我々の時代としての知識によつて、研究して行かなければならない。先輩の研究は、有難いものではあるが、我々は其を越えて、伝襲的学説を、改めて行かなければならない。定論と言ふものは、さうあるものではない。正確か、不正確かの問題である。
一〇 神典解釈上の古今
神典の解釈も、古来種々と行はれてゐるが、信仰といふものは、現実に推移して行く。故に神典の解釈に当つては、古典として固定したものを、理会して行くのであるから、理会の為方があるのである。其方法及び助力が、時代によつて異つてゐる。古くから、江戸時代に至る迄は、日本紀の研究ばかりで、古事記は顧みられなかつた。日本紀は、平安朝の初めから、漢学者によつて研究せられた。日本紀講筵と呼ばれてゐる。其中に、理会の為方に違つた要素が、這入つて来てゐる。即、安倍晴明によつて知られた陰陽《オンミヤウ》道を、補助学科としてゐる。陰陽道には、漢学風のものと、仏教風のものとがある。其為に、日本紀の解釈も、僧の畑に這入つて行はれ、仏教式の色彩が濃くなる。神仏習合と言ふ事は、仏教派が、日本紀を中心としてやつた事である。
其が次第に進んで来る間にも、やはり、古代の精神は亡びないで、時々、その閃めきを見せてゐる。此が、江戸時代の新しい学者を刺戟して、新しい神道を築かせた所以でもある。其組織の基礎には、陰陽道・儒学・仏教等の知識が這入つてゐる。純粋の日本の神道だと考へてゐる中にも、存外、かうした輸入の知識が、這入つてゐるのである。又、古代のよい点のみを採つて、神道だとしてゐるが、かゝる常識を排して、善悪に拘らず、日本の事である以上、考へて見なければならない。即、長所短所を認め、総決算をした上で、優れた日本精神が出て来れば、よいのである。
神道の研究は、昔に立ち戻つて、始めねばならない。信仰としては、全然別問題であるが、学問としては、筧博士の「神ながらの道」に説かれたところを以て、日本の古代精神であると考へては、誤りであると思ふ。世間では、あまりに、今日に都合よいやうに、神道を変へ過ぎてゐる。
一一 神道と仏法と
神道と言ふ語自身、神道から出たものではなく、孝徳天皇紀の「仏法を重んじて、神道を軽んず……」とあるところから出てゐる。尤、こゝの神道の語は、今日の意味とは違つて、在来の土地の神の信仰を斥してゐる。仏教の所謂「法」は、絶対の哲理であり、「道」は異端の教へである。日本に仏教が這入つて後、仏教を以て本体と考へ、日本在来の神の道を異端、又は、天部《テンブ》の道或は、仏教の一分派のやうに感じた。
陰陽道・仏教が栄えるやうになつて、神道は、仏教から離れて来た。而も尚、仏教家が、仏教を説く方便として、何処の神は、何仏の一分派であるとか、仏法を擁護する為に、此土地にゐた精霊であるとか、言うてゐる。此考へを示してゐるのが、安居院《アグヰ》神道集である。
神道の語は、実は神道にとつて、不詮索な語であつた。命名当時に溯つて見れば、迷惑を感ずるものである。神ながらの道などゝ言ふ方が、まだよい。併し、語は同じでも、意味は、時代によつて変化するものであるから、「神道」と言ふ語の出所も、意味も忘れられてゐる。故に、神道と言うてゐて、何等さし支へない訣である。
一二 神道と民俗学と
今後の神道は、如何にして行けばよいか。今までは、民間の神道を軽んじて、俗神道と称して省みなかつた。これは、江戸時代の学者が驕つて、俗神道は、陰陽道・仏教等の影響を受け過ぎてゐる。自分等の考へてゐるのが、古代の神道である、と自惚れた結果である。ところが、彼等の考への基礎は、漢学や仏教であつて、却て俗神道の中に、昔から亡びずに伝つてゐる、純粋な古代精神が、閃めいてゐるのである。
其純粋な古代精神を見出すのが、民俗学である。今まで述べて来た中に、若し多少でも、先輩の説よりも、正しいものがあつたとすれば、其は民俗学の賜である。俗神道中から、もつと古い神道を、民俗学によつて、照し出したお蔭である。かうして行けば、新しい組織が出来、而もそれは、従来の神道を破るものではないと思ふ。今の神道は、余りに急拵へに過ぎる。江戸時代に、急に組織したものを、明治政府が、方便的に利用した
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