古代人の思考の基礎
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)竟《つひ》に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)神|即《すなはち》現神
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「广+寺」、378−17]《カンダチ》
[#…]:返り点
(例)[#レ]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)近江[#(ノ)]国
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さび/\し
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一 尊貴族と神道との関係
尊貴族には、おほきみ[#「おほきみ」に傍線]と仮名を振りたい。実は、おほきみ[#「おほきみ」に傍線]とすると、少し問題になるので、尊貴族の文字を用ゐた。こゝでは、日本で一番高い位置の方、及び、其御一族即、皇族全体を、おほきみ[#「おほきみ」に傍線]と言うたのである。この話では、その尊貴族の生活が、神道の基礎になつてゐる、といふ事になると思ふ。私は、民間で神道と称してゐるものも、実は尊貴族の信仰の、一般に及んだものだと考へる。
平安朝頃までは、天皇の御一族のことを王氏と言ひ、其に対して、皇族以下の家を、他氏と言うてゐた。奈良朝から、王氏・他氏の対立が著しくなつた。正しい意味における后は、元、他氏の出であつて、其上に、一段尊い王氏の皇后があつたことの回顧が、必要である。
尊貴族と、同じ様な生活をしてゐた、国々或は村々に於ても、其と、大同小異の信仰が、行はれてゐた。又その間、かなり違つた信仰もあつたであらうが、其等は、事大主義から、おのづから、尊貴族の信仰に従うて来た。中には、意識して変へた事実もある。其は、近江・飛鳥・藤原の時代を通じて見られる。かの大化改新の根本精神は、実は宗教改革であつて、地方の信仰を、尊貴族の信仰に統一しよう、とした所にあつた。奈良朝から平安朝にかけては、王族中心の時代になりかゝつてゐたが、此頃になると、もう王氏を脇に見て、他氏が、勢力を得て来てゐる。それで尊貴族は、竟《つひ》に表面に現れないで、他氏が力を振ふやうになつた。
話を単純にする為に、例をあげると、毎年正月十五日頃行はれる御歌会始めは、今では、神聖なといふより、尊い文学行事になつてゐるが、平安朝末頃の記録を見ると、固定して来てはゐるが、まだ神聖な宗教的儀式であつた。其習慣は、平安朝を溯つて、奈良朝より、更に以前から、あつたものと思はれる。
この神聖な宗教上の儀式である御歌会は、元は、男女が両側に分れて、献詠したものであらう。天皇が御製をお示しになる時は、女房が簾越しに出す事になつてゐた。この形式の一分化として、平安朝から鎌倉時代へかけて、屡《しばしば》行はれた歌合せの場合にも、其習慣から、天皇・上皇の御歌は、女房名を用ゐて、示されてゐる。宮廷の生活をうつした、貴族の家で行はれた歌合せには、其家の主人が、女房といふ名を用ゐた。大鏡を見ても訣る。後鳥羽院は、歴代の天皇の中で、最すぐれた歌の上手であらせられたが、皆、女房と言ふ名で、歌合せをなさつてゐた。
今でも、御歌会の時には、召人が召されるが、昔は、此召人と言ふものは、大抵武官出であつた。貴族の子弟のなつてゐる武官ではなくして、五位以下の、多くは地下のものであつた。即、位の低い武官が召された。平安朝末から鎌倉へかけて、武官出の名高い歌人の出てゐるのは、即、この習慣の熟したものである。譬へば、源三位頼政・佐藤義清(西行)及び、後鳥羽院の時の藤原能任等の人々が、其である。
召人として召された、武官の相手になるのは、宮中の女房である。其も、時代が下ると、位の低い女房に変つて行つたが、元は位の高い、采女の中から出た。采女と称せられる、女房の範囲は広かつたが、平安朝になつて、此中から、上流の女房といふ階級が出て、采女の地位は、低いものになつて了うた。御歌会に、女房と武官とが対立の位置に立ち、此が発達して、宮中の歌合せとなつた。
宮中の正式な歌合せは、此一つの原因ばかりから出来たのではないが、此形式を取り込んで、厳粛なものになつて来たのである。
采女と地下の武士とが、何故に歌合せに出るやうになつたか。其は、采女は平安朝になると、前述のやうに、低い位のものとなつたが、其前には、郡領――地方の郡の長官――の女であつた。其が召されて京に上り、任期を終へて、稀には京にゐつく者もあつたが、帰国するのが例になつてゐた。帰国した者は、宮廷の諸儀式を、自分の家に伝へ、或は、其家の勢力範囲へ伝播した。
此采女に対立して、やはり郡領の息子が、京に上つてゐる。此は、近代まで続いてゐた、大番役のやうなものであつた。これ等、郡領の一族から出たものを、総括的に舎人と言ふ。此舎人も、後には、任期を勤めあげて、京にゐつくものもあつたが、奈良朝以前には、大抵帰国して、宮廷の信仰を宣伝してゐる。
宮中には、神代以来の歴史を誇る、武官の家々があつたので、舎人等が、地方から沢山上つて来ると、人数があり余る。すると、王氏は勿論、位置の高い者にお下げになる。随身《ズヰジン》がそれである。随身は又、仕へてゐる王族・貴族によつて、資人又は、帳内とも言うた。要するに、本体は、宮廷の舎人として考へられる。貴族の家々にゐる女房も、同様に宮廷から下されたものだ、といふ仮定も成り立つ訣で、このやうに、宮廷の生活が、次第に下へ移され、貴族の家々でも、宮廷と同様な方式があつたから、舎人・采女によつて移された、宮廷の生活様式を、直ぐに受け入れる事が、出来たのである。
平安朝末になると、武官はほんの召人として、軽く扱はれてゐるが、清輔の「奥義抄」の巻頭に、此事をまじめに書いてゐる。平安朝も末期の記録では、軽く見られてゐるが、元は、意味深く考へられてゐた。
初春朝賀の式が行はれる時に、天皇が祝詞を下されると、群臣が其に御答へとして、寿詞《ヨゴト》を奉る。此は、天皇の齢《ヨ》を祝福すると同時に、服従の誓ひを新しくすることである。延喜式祝詞では、祝詞・寿詞の意義が、混同して用ゐられてゐる。
日本の儀式は、同じ事を幾度も繰り返す。其は、たゞ繰り返すのではなく、平易化して複演するのである。宮廷の元旦朝賀の儀式に、寿詞を奏上すると、寿詞なる口頭の散文に対して、今一段くだけた歌なるものを、複演奏上する。歌は、寿詞から分化したもので、寿詞の詞の部分ではなく、独白の文章、自分の衷情を訴へ、理会を求める部分の集つて、分離して来たのが歌である。即、寿詞奏上の後、直会の意味に於て歌会をする。
今の神道では、それが大分くだけて、正式の祭りの後に、神社で直会《ナホラヒ》といふものをする。其が、今は殆、宴会とくつついてゐるが、昔は神まつり(正式儀式)・直会・肆宴《トヨノアカリ》と三通りの式が、三段に分れてゐた。この三通りの式を、次第にくだいて行ひ、直会では歌、肆宴では舞ひや身ぶりが、主になつてゐる。
朝賀の式が終つた後に、直会をする。この直会に当るものが、御歌会であつた。宮廷では、早く其を大直日《オホナホビ》の祭りと言うてゐた。大直日・神直日《カムナホビ》は、祝詞の神である。神授と信じてゐる伝来の祝詞にも、読んでゐる中に、誤りが出て来るかも知れない。誤りがあると、神から、禍ひが下される。
禍ひを下す神を、大禍津日神《オホマガツヒノカミ》・八十禍津日神《ヤソマガツヒノカミ》といひ、神官は嫌うてゐるが、実は大切な神なのである。神道では、此神に対する理解が、変つて来てゐるが、神伝来の祝詞、其に答へる寿詞の誤りを、指摘する神である。今ではどうかすると、祝詞は儀式の上で、なければならないものだから、単に読むものだと考へられさうであるが、昔は、神の言葉と信じ、寿詞では、自分等の思ふ所を述べたのである。
人間に伝はつてゐるのだから、間違ひがある。神に間違うたことを言ふと、罪せられる。誤りがあつた場合に、その誤りを指摘するのが、大禍津日神である。其を、対句式に表現した結果、その性格に分裂を起して、八十禍津日神と言うた。其を後には、悪魔のやうに考へた。誤りの無いやうに、直して貰はねばならない其神が、大直日神・神直日神であつて、神道では、別々の神のやうに考へてゐるが、此は調子をとる為の、対句から発生したものである事は、禍津日神におけると同様である。
その後、大直日・神直日二神をまつると、唱へごとに誤りがあつた場合に、其を訂正してくれた。
平安朝の宮廷では、朝賀の式が済むと、大直日の祭りに相当する事が行はれた。此を分けて、大直日の祭りと、御歌会との二とする。大直日の祭りは、朝賀の式に接して行はれたが、神を祭るだけではなく、其時奉る言葉に、誤りがあつてはならないので、訂正の意味で、これを行ふのである。この大直日の祭りの時に、歌を歌ふ。
古今集巻二十の巻頭に、大直日の歌がある。此が、正月にあるのはをかしいと言ふが、大直日だから、正月にもあるのである。
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あたらしき年のはじめにかくしこそ ちとせをかねて たのしきをへめ(つめ[#「つめ」に傍線]とあるのは、疑ひもなくへめ[#「へめ」に傍線]の誤り)
[#ここで字下げ終わり]
此は、奈良朝の歌(続日本紀)の形を、少し変へて伝へてゐたのである。其で見ると、大直日の祭りが、朝賀の式に接して行はれてゐたことがわかる。実は御歌会と、大直日の祭りとは、同じものであつたのが、分裂して、別のものゝやうになつて来たのである。
御歌会の時には、男女が両方に分れる。其時の主体は、采女と舎人とであつた。此時の歌は、新作ではなくして、自分の地方々々の歌を出して、神に献じた。この歌を国風《クニブリ》と言ふ。新しく、宮廷に服従を誓ふ意味のもので、毎年初春に、服従を新しくしたのである。
ところが、其前から、世間では、歌合せの元の形と見るべきものが、行はれてゐた。歌垣・歌論義など言ふものが、其である。其方式を、次第に取り込んで、御歌会に、歌を闘はせる事になつて、歌合せが出来て来た。
国々には、国々を自由にする魂があつた。国々の実権を握る不思議な魂即、威霊《マナア》があり、其がつくと、其土地の実権を握る力を得る。
地方々々に伝承する歌には、其魂が這入つてゐて、其を歌ひかけられると、其人に新な威力が生ずる。采女・舎人が国風の歌を奉ると、天皇に威霊が著いたのである。そこで、歌を献じた地方は、天皇に服従する事になるのである。
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さゞなみの国つ御神のうらさびて 荒れたるみやこ 見ればかなしも(万葉巻一)
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近江[#(ノ)]国の御神の心が荒んで、近江宮廷が、こんなに荒れたのだらう、と説いてゐる――山田孝雄氏に、別解がある――が、此は、魂の考へ方からすると、人間の魂の游離する事が、うらさぶ[#「うらさぶ」に傍線]である。魂が游離すると、心が空虚になる故、寂しいといふ事になる。平安朝になると、さび/\し[#「さび/\し」に傍線]即、さう/″\し[#「さう/″\し」に傍線]と使うてゐた。心が空虚で、物足らない、魂の游離した様子である。この歌は、天皇に著かねばならない近江の国の魂が、弘文天皇から游離して、天武天皇に移つて了うたから、弘文天皇は、国を天武天皇に、御委せにならねばならなくなつたことを、歌うたものである。
国々の郡領、又は其子どもが、自分の家に伝つてゐる歌を唱へると、唱へかけられた天皇に、其力が移る。天皇は、国中のあらゆる魂を持つてゐるから、日本の国を領してゐられるのであつて、此事が訣らなければ、神道の根本に触れる事は出来ない。日本の国は、武力で征服したとか、聖徳で治めたとか言ふが、宗教的に言ふと、国々の魂を献つたからである。
魂を聖躬に著けるのは、本来ならば、一度でよい筈である。其をいつしか、毎年繰り返してせねばならない、と考へて来た。其役を果す為に、郡領の息子・娘である舎人・采女は、宮廷に来てゐたのである。舎人・
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