采女は、宮廷の現[#(ツ)]神――天皇は、神の御言詔伝達《ミコトモチ》であり、又時には、神におなりになる――に仕へ、任終へて、地方に帰るに及んで、宮廷の信仰は、地方に拡つたのである。
此信仰の行はれた時代は、長く続いたが、武家が勢力を持つに至つて、武力で国を征服する、といふ考へ方が萌《きざ》し、やがて其が、ずつと溯つた時代までもさうであつた、と考へさせるに至つた。采女達は、各国に帰れば、国[#(ツ)]神最高の巫女になり、舎人は、郡領又は其一族として、勢力があつた。此人たちが、都の信仰を、習慣的に身体に持つといふ事は、自ら日本宮廷の信仰を、地方に伝播することゝなつた。古代にあつては、信仰と政治上の権力とは、一つであつた。宗教の力のある所、必政治上の勢力も伴うてゐた。即、この舎人・采女達が、宮廷の信仰を、地方に持ち帰つたと言ふことは、日本宮廷の力が、地方に及ぶ、唯一つの道であつた。
大化改新は、今まで国々を治めてゐた国《クニ》[#(ノ)]造《ミヤツコ》から、宗教上の力を奪つて、政治上の勢力をも、自ら失はせた。改新以後は、従来国造と呼んでゐたものを、郡領と称するやうになつた。郡領は、単なる官吏として、宮廷の代理者としての、政治上の力を有するに止つて、宗教上の力はなくなつた。国造から、宗教上の力を奪はなくては、尊貴族の発展は、期し難かつた。
郡領の女は、地方の神の女であり、子である。舎人は、第二の郡領であるから、其生活を変へて、宮廷式にすれば、宮廷の信仰が、地方に及ぶことになる。この方法は、自然に、無意識の間に行はれてゐたのであるが、後に、意識的に行はれるやうになつて、平安朝まで続いた。
宮廷で、春、御歌会を行ひ、郡領の子女が、其国々の歌を出したのは、国々の魂を奉る意味であつて、此が後に、歌合せに変化した。さう考へると、元旦の朝賀の式のくだけたのが、御歌会である。この歌会以外、いろんな場合に、舎人・采女が天皇即、神なる天皇に、常侍して居て、地方に帰つて後、宗教的の生活をするのであるから、宮廷の風が伝つて、宗教的の統一が行はれた。其はとりも直さず、政治上の統一でもあつた。日本の政教一致といふのは、世間で解してゐるのと異つて、今述べた意味に於いての、政教一致であつた。
舎人が地方に帰る時には、此者が中心となつて、其仕へてゐた天皇の輩下の、舎人部を拵へた。此が……天皇の大舎人部――詳しくは、日奉……大舎人部――といふものであつた。日奉――ほんとうは、日を祀るの義である――部といふものが、代々の天皇の仰せを蒙つて、諸国に散遣してゐた。其が奈良朝になつては、部曲の名のみが残つてゐるばかりであるが、我々の計り知れない昔から、日奉部が、舎人部から出て、天皇に仕へ、地方に帰つて、宮廷から伝つた神秘な力、天体の運行を計る信仰を以て、地方を治めて行つた。すると其国が、天皇の国になる。即、地方から出て、宮廷に仕へた男女が、宮廷の宗教を持つて帰る為に、信仰の非常に違うた地方も、宮廷の信仰と同様になり、宮廷の勢力が及んで、宮廷の領地と考へられるやうになつた。
また、宮廷に似た生活様式を持つたものは、次第に、都の近くに集つて来た。普通これを、大臣《オホオミ》と言うてゐる。以前はおみ[#「おみ」に傍線]を、大身と説いてゐた。即、大臣は国を持ち、天皇には、半服従してゐる、といふ位の国の主で、天皇の国に対して、対照の位置に立つ大忌である。宮廷の神道では、大忌《オホミ》・小忌《ヲミ》(能楽に、小忌衣とて用ゐる)の二通りあつて、をみ[#「をみ」に傍線]は直接神にあたつて、厳重な物忌みをする人であつた。後には、此人達の身分は、次第に低くなつたが、元は、その高い人ほど、厳重な物忌みをしたのであつた。今でも、大嘗祭に当つては、天皇が一番、お苦しみになるのである。三度も、風呂をお召しになる。其時小忌が、天皇の御介錯を申し上げる。小忌は、宮廷で一番、高い位置にある人で、今ならば、総理大臣とも言ふべき人である。
廻立殿《クワイリフデン》の湯は、絶対の神秘で訣らないが、ともかく、女が其役をする。此時に、神秘が行はれるのである。宮殿のは、平安朝まで行はれてゐて、此方は、或点訣るところがある。昔は、宮廷では、天皇が一番、苦しんでゐられた。一年を通じて、殆絶えることなしに続く祭りを、御親祭になるお苦しみは、非常なものであつた。天皇に次いでは、小忌――上達部《カンダチメ》がさうであつた。
上達部とは通称であつて、官名ではない。極自由に用ゐられてゐた為に、平安朝になつて、女の文章が、通用語を記すやうになつてから、記録せられた語である。平安朝の記録に、はじめて現れたと言ふ理由で、此語が、奈良朝には行はれなかつたとするのは、早計であつて、奈良朝時代既に、行はれてゐた語である。当時は、記録の必要を見なかつたから、記されなかつたまでゞある。
上達部とは、上達の団体のことである。上達は神館《カウダチ》で、物忌みをする人の籠る所である。伊勢皇太神宮にもあつた。祭りに、神の召し上るものを作るところ、即、※[#「广+寺」、378−17]《カンダチ》で、其処にゐる人と言ふ意味である。平安朝では、五位以上の人を殿上人といふのに対して、三位以上の公卿を意味してゐる。こゝに到つて、宗教上神館に集つて、物忌みをする人といふ意味は、忘れられて了うた。そして汎称であつたのが、次第に狭くなつて、ある団体だけを言ふことになつた。
其で貴族達――所謂上達部――の生活を見ても、大和に近いところに、国をなしてゐた人達の跡で、宮廷の生活信仰に触れることが多かつた。従つて、宮廷の信仰・生活が、貴族を風化して行つた。それが次第に、地方に拡つて行き、更に民間に伝播した。我々が民間のものと思うてゐるものにも、宮廷の信仰・生活の変化したものが多い。

     二 威霊

天皇には、日本の国を治めるのに、根本的の力の泉がある。此考へが無ければ、皇室の尊厳は訣らない。其は威霊――我々は、外来魂と言うてゐるが、其を威霊と代へて見た。まなあ[#「まなあ」に傍線]の訳語――である。
天皇は、大和の国の君主であるから、大和の国の魂の著いた方が、天皇となつた(三種の神器には、別に、意味がある)。大和の魂は、物部氏のもので、魂を扱ふ方法を、物部の石上の鎮魂術といふ。此一部分が、神道の教派の中に伝つてゐる。此以外に、天皇になる魂即、天皇霊(敏達紀外一个処)がある。
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若《モシ》違[#(ハヾ)][#レ]盟[#(ニ)]者天地[#(ノ)]諸《モロモロ》[#(ノ)]神及[#(ビ)]天皇霊[#(ニカケ)]絶[#二]滅[#(セム)]臣[#(ノ)]種[#(ヲ)][#一]矣(敏達天皇十年閏二月)
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此を平く言ふと、稜威《みいつ》である。神聖な修飾語のやうに考へてゐるが、実は天皇霊で、大嘗祭に、聖躬に著くのである。
悠紀殿・主基殿と分れて建つのは古い事で、天武紀にも見られることである。前述のやうに、此は、初めは一つの御殿だつたに違ひない。其中、一番問題になるのは、御殿の中に、御衾を設けてあることで、神道家の中には、天照大神の御死骸が其中にあるのだ、と言うてゐる人もあるが、何の根拠もない、不謹慎な話である。天孫降臨の時、真床襲衾《マドコオフスマ》を被つて来られたとあるが、大嘗宮の衾も、此形式を執る為のものであると思ふ。今でも、伊勢大神宮に残つてゐるかも知れないが、伊勢の太神楽に、天蓋のあるのは、此意味である。
尊い神聖な魂が、天皇に完全に著くまでは、日光にも、外気にも触れさせてはならない。外気に触れると、神聖味を失ふと考へてゐた。故に真床襲衾で、御身を御包みしたのである。その籠つてゐられる間に、復活せられた。
伊勢にあるのは、太神楽のもつと以前、恐らく三百年も前にあつたもので、近世まで、古い形のまゝ、諸国を廻つてゐる神楽の天蓋の中に、真床襲衾といふものがあつた。
五年目毎に、太神楽が廻つて来て、天蓋で、村の青年を包んで、外気に触れさせず、食物も喰べさせないで、願立てをして、踊りまはる。さうしてゐる間に、其青年は、村の若い衆となる。此は、村の中心勢力として、神事に与る資格を得るのである。実は祭りの時に、神になる資格を持つものが、若い衆である。今の太神楽以前に、諸国を歩いた神楽は、真床襲衾といふ、白い天蓋を持つて廻つた。伊勢の御師《オシ》達にも、そんな神楽をもつて廻つた時代があつた。其図が現存してゐるが、非常に変つたものである。
真床襲衾に包まれて復活せられた事は、天皇の御系統にだけ、其記録がある。其中で物もお上りにならずに、物忌みをなされた。その習慣がなくなつて後、逆ににゝぎ[#「にゝぎ」に傍線]の命が、真床襲衾に包まつて、此国に降り、此地で復活なされたのだと考へて来た。我々は、宮廷で、真床襲衾を度々お使ひになるので、天上から持つて降られたものと思ふが、其は、逆に考へ直す方が、正しいのである。
古代には、死の明確な意識のない時代があつた。平安朝になつても、生きてゐるのか、死んでゐるのか、はつきり訣らなかつた。万葉集にある殯《アラキ》[#(ノ)]宮《ミヤ》又は、もがりのみや[#「もがりのみや」に傍線]に、天皇・皇族を納められたことが知れる。殯宮奉安の期間を、一年と見たのは、支那の喪の制度と、合致して考へる様になつてからの事で、以前は、長い間、生死が訣らなかつたのである。死なぬものならば生きかへり、死んだのならば、他の身体に、魂が宿ると考へて、もと天皇霊の著いてゐた聖躬と、新しく魂が著く為の身体と、一つ衾で覆うておいて、盛んに鎮魂術をする。今でも、風俗歌をするのは、聖上が、悠紀殿・主基殿に、お出ましになつてゐられる間、と拝察する。
中休みをなさつた聖躬が、復活なさらなければ、御一処にお入れ申した、新しく著く御身体に、魂が移ると信じた。死と生と、瞭らかでなかつたから、御身体を二つ御一処に置けたのである。生と死との考へが、両方から、次第にはつきりして来ると、信仰的には、復活するが、事実は死んだと認識するやうになる。そして、生きてゐた者が出て来ても、一度死んだ者が、復活したのと、同じ形に考へた。出雲の国造家の信仰でも、国造の死んだ時には猪の形をした石に結びつけて、水葬したが、死んだものとは、少しも考へなかつた。其間に、新国造が出来たが、宮廷に於ける古い形と等しく、同じ衾から出て来るので、もとの人即、死者と同じ人と考へられてゐた。従つて、忌服即喪に籠る、といふ事はないのである。
も[#「も」に傍線]といふ語は、腰巻き又は、平安朝の女房たちの用ゐた裳と思はれてゐるが、ほんとうは紐のない、風呂敷の様な、大きな布で、真床襲衾と称した処のものである。も[#「も」に傍線]に籠るといふことは、衾に這入る事で、此間のものいみ[#「ものいみ」に傍線]は、非常に広く、且厳重に行はれたもので、ものおもひ[#「ものおもひ」に傍線]と言うてゐる。後には、誤つた聯想から、服喪の意味に考へて来た。
元々一つの御殿を、悠紀殿・主基殿に分けたのは、生死を分けて考へる様になつたからであらう。二殿に、衾が別々に置いてあつても、其処で古い方の魂が、新しい方に移ると考へた。万葉の人麻呂の歌を見ても、天武天皇が、飛鳥の真神个原の御陵に移され、それから岩戸を開いて、天に昇られたとあるが、此は、信仰が変つてゐる。昇天するのではなく、其魂が、授受の形式で移るので、信仰的には、復活した事になるのである。
日本民族の、此国土に於ける生活は、長い歴史を持つてゐるのであつて、一部学者の言ふやうに、千年やそこらの事ではなく、かなり久しいものなのである。其長い歴史の間、天皇の魂の授受せられて行く中に、次第に天皇の死を考へて来た。もとは復活なさるとのみ考へ、天皇霊――稜威が著いたと信じてゐた。
天皇が、大和に移られてからは、大和を治める為には、大和の魂を持たねばならなかつた。其大和の魂を持つてゐたのは、物部氏だと考へられてゐた。最初は、にぎはやひ[#「にぎはやひ」に傍線]の命であつた。神武天皇
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