これの一番、適切に残つてゐるのは、諏訪である。諏訪明神で、七年目毎に行はれる御柱祭りは、元の意味は訣らなくなつてゐる。其は、大陸地方の習慣である、と言ふ人もあるが、誤りである。宮を造営するに先だつて、やしろ[#「やしろ」に傍線]を標《シ》め、神のゐる所を作るために、柱を立てるのである。もつと簡単なのは、標《シ》め縄を張るだけである。こゝに立てる柱は、一本でもよいのに、諏訪では、四本立てゝゐる。此は、古い形を遺して、適確なやしろ[#「やしろ」に傍線]の信仰を伝へてゐるのである。もつと溯ると、一本で、斎柱と同じであつたらう。諏訪の御柱も、宮には関係がない。此処にもほんとうは、宮を建てる前に、やしろ[#「やしろ」に傍線]だけの時代があつたのかも知れない。
不思議なもので、柱さへ立てば、家が建つたと同じに見立てたので、いざなぎ[#「いざなぎ」に傍線]・いざなみ[#「いざなみ」に傍線]二神の章の、天御柱をみたてた[#「みたてた」に傍線]と言ふのも、此意味である。神典の書き留められた時分になつては、神聖な語として伝へられたが、其本意は、既に忘れられて、立派な御殿を見立てたと考へてゐる。
八尋殿をお建てになつて、天御柱を廻つて、夫婦《メヲト》の契りをなさつたと言ふ。此は不思議なことで、新しく結婚して、夫婦になると、家を建てる。此を妻屋《ツマヤ》(又、嬬)と言ふ。万葉にもある。妻屋を建てなければ、正式に結婚した事にはならない。結婚する為に、家を建てるのは、いざなぎ[#「いざなぎ」に傍線]・いざなみ[#「いざなみ」に傍線]二神の故事によつて、柱を廻るのに、傚うたのである。特に、新夫妻の別居を造る、と言ふ意味ではない。此が逆に新屋を建てると、新しい夫婦を造つて、住はせなくては、家を建てた、確実な証拠にはならない、と言ふ考へを導いて来る。夫婦になる為に家を建て、家を建てる為には、夫婦を造らなければならない、と言ふ変な論理である。日本では、逆推理・比論法を平気でやつてゐたのである。をかしいながら、理窟が立つてゐる。
いざなぎ[#「いざなぎ」に傍線]・いざなみ[#「いざなみ」に傍線]二神が、神々をお産みになつた後、大八島をお産みになつた、と言ふことは、信仰だからいゝのだ、とだけでは済まされないので、説明するのに、ちよつと困る話である。肉体を持つた神が、何故に土地を産むのか。其が神聖なのだ、と言うたゞけでは通らない。日本紀に、淡路島を胞《エ》として、大八島を産まれた、と明らかに書いてある。長兄・長女を兄《エ》と言うた。其で此処も、淡路島を最初に産んだ、と解釈してゐる。其様な無理な解釈でよいならば、文字はいらない。土地を産む時には、淡路島を胎盤《エ》としてお産みになると考へてゐた。つまり、腹が別なのである。昔の人としては、よく考へてゐたのだ。

     七 数種の例 二

それから、日本の国では、年の考へが、まち/\であつた。其は、暦が幾度も変つた為である。天皇は、日置暦《ヒオキゴヨミ》といふものを持つてゐられたが、後に、それが度々、変化してゐる。
その昔の暦を考へて見ると、天皇が高処に登られて、祝詞を唱へられると、春になる。初春に、祝詞が下される、と言ふのと反対であつて、天皇が祝詞をお下しになると、春になる、と考へてゐた。
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商返《アキカヘシ》しろすと、みのりあらばこそ。わが下衣 かへしたばらめ(万葉集巻十六)
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商返を、天皇がお認めになる、と言ふ祝詞が下つたら、私の下衣を返して貰ひませうが、お生憎さま。商返の祝詞がございませんから、返して頂く訣にはゆきません、と言ふのである。
商返は、日本の歴史の上では、長い間隠れてゐた。歴史の上に見えないと言ふ理由で、事実が無かつたと思ふのは、早計に過ぎる。室町時代以後になつて、徳政と言ふ不思議なことが、突然記録に現れて来たが、此は今まで、記録にも歴史にも現れずに、長い間、民間に行はれてゐたのが、時代の変化に伴うて、民衆の力が強くなつて来たので、歴史の表面に出たのである。
商返と言ふのは、社会経済状態を整へる為、或は一種の商業政策の上から、消極的な商行為であつて、売買した品物を、ある期間内ならば、各元の持ち主の方へとり戻し、又契約をとり消すことを得しめた、一種の徳政と見るべきもので、此がちようど、夫婦約束の変更、とりかはした記念品のとり戻しなどに似てゐるので、一種の皮肉な心持ちを寓して、用ゐたのである。
かうした習慣の元をなしたのは、天皇は一年限りの暦を持つて居られ、一年毎に総てのものが、元に戻り、復活すると言ふ信仰である。此信仰は続いてゐたが、事実を見ると、人間は生きてゐて変らない。其処に、信仰と現実との矛盾を感じて来た。其でも地方では、売買貸借で苦しめられて、やりきれないので、十年目とか、二十年目とかに一度、と言ふ風に、近年までやつてゐた。土地をきりかへて、班田法のやうな方法によつて、分けてやるのである。江戸時代の末まで行はれてゐたが、明治になつて、絶えて了うた。万葉時代に、事実行はれてゐたのか、それとも、伝説となつてゐたのか、不明ではあるが、商返と言へば、皆に意味が訣つたのである。男女契りを結ぶと、下の衣を取りかへて著た。著物は、魂の著き場所で、著物を換へて身に著ける、と言ふ事は、魂を半分づゝ交換して著けてゐる事である。魂を著物につけて、相手に預けてあるので、衣服を返すと、絶縁したことになる。此処に引いた歌は、軽い洒落で、半分嫉妬し、半分笑うてゐる、おどけた、つまらない歌である。併し此歌で見ても、徳政の起原の古いことが知れる。
明治初年まで、年が悪くて、稲虫がついたとか、悪疫が流行したとかすると、盆に、二度目の正月をしてゐる。暑いのに、門松を立てゝ、おめでたうを交してゐる。すると、気持ちがよくなると共に、総てが新しくなる、と考へてゐた。
正月について考へて見ても、正月の中に、正月を重ねてゐる。元日に続いて、七日正月を迎へ、更に十五日を、小正月と言うてゐる。古来の暦法と、其後に這入つて来た暦との矛盾が、其処に現れた為である。十五日は、支那の暦法でも上元の日で、重く見られてゐる。その印象が、人の頭を支配してゐた。古い時代の暦に較べて、新しい暦法では、正月を早くしてゐる。けれども、昔の正月として、上元の日を定めて、農村では守つてゐた。
地方によると、立春の日を正月と考へ、又七日も正月としてゐる。信州の南の方では、正月元日から、十五日までの間に、正月を四五回繰り返してゐる。従つて、歳暮・大晦日・節分等も、度々やつてゐる。此考へ方は、近世から起つたことではなく、大昔からあつた。暦が、幾度にも渡来したばかりでなく、日本人は、何度も繰り返さなければ、気が済まなかつたのである。
初春には、常世国から、神が渡つて来た。春の初めに行はれる春田うちは、信州にもあるが、此時は、爺婆の姿か、普通の男女の形かで出て来て、田を耕し、畔を塗り、苗を植ゑる形をして、雪中に松を刺して、稲が出来たなど言うて喜ぶ。一年中の事を、とり越してやつて見せると、土地の魂が、其様にしなければならないと感じて、春田うちにやつたとほりに、農作の上に実現して呉れると考へた。初春に、一度すればよい訣であるのに、気がすまないので、田植ゑにやり、更に二百十日・二百二十日前後にやつてゐる。其頃になると、神嘗祭りに近づいて来る。
天皇が、初春の祝詞を下される時には、必復活の形をとつて、高御座にのぼり給うた。実際は、お生れになつた形を、とらなければならなかつたのである。
昔の考へ方は、堂々めぐりをしてゐて、一つ事をするのには、其に関聯した、いろんな事をせねばならなかつた。天皇初春の復活に際しても、皇子御降誕の時の形式をとつて、大湯坐《オホユヱ》・若湯坐《ワカユヱ》・飯嚼《イヒガミ》・乳母《チオモ》がお附きする。この大湯坐は、主として、皇子に産湯をつかはせる役目をするもの、若湯坐も同様である。飯嚼は、食物を嚼んで、口うつしに呉れる者、乳母は、乳をのませる者である。この形を繰り返してせなければ、完全な式ではない。それを後世からは、この形式を、或天皇がお生れになつた時の事を伝へてゐるのだ、と考へてゐるが、これは或天皇に限つた事ではなく、常に行はれてゐる事であつた。初春ばかりでなく、祭りの時は、何時でもこの形式を執つた。
更に不思議なことがある。天皇が高所に登つて、祝詞を下すと、何時でも初春になり、その登られた台が、高天原になつて了ふ。此信仰が、日本神道の根本をなしてゐる。此を解かないから、神道の説明は、何時でも粗略なものになつてゐる。台に登つて、ものを言はれると、地上が高天原となる。この時、天皇は天つ神となる。大和及び、伊予の天香具山《アメノカグヤマ》、同じく大和の天高市《アメノタケチ》、近江のやす川などの名は、皆天にある名を移したのである。後になると、忘れられて、天から落ちて来たものだ、と考へるやうになつた。
奈良朝のものゝ断篇だ、と言はれてゐる、伊予風土記の逸文に、天香具山は、伊予にもあると記して、天上のものが二分して、大和と伊予とに落ちて来た、と考へてゐるが、此は、後代の説明である。
宮廷の祭りの時に、天上と地上とを同じものと感じ、天上の香具山と見做された処が、大和・伊予にある香具山である。天の何々と呼ばれてゐるところは、天上と地上とを同じものと見た時に、移し呼ばれた、天上の名前である。
天子は常に、祭りをなさつてゐる為に、神か人か、訣らなくなつてゐる位、天上の分子の多いお方である。後世――と言うても、奈良朝頃――は常識的に、現神と言うてゐるが、古代にあつては、神であり、神の続きと見てゐる。
此処で、天子の意味を考へて見たい。
天皇は、天つ神の御言を、此土地にもつて来られたお方である。昔は、言葉によつて、物事が変化する、と言ふ言霊《コトダマ》の信仰をもつてゐた。言霊は単語、又は一音にあるやうに、古く神道家は解いてゐたが、文章或は、その固定した句に於て、はじめてある事実である。文章に、霊妙不可思議な力がある、と言ふ意味からして、其が作用すると考へ、更に、神の言葉に力があるとし、今度は語の中に威力が内在してゐる、と考へた。其を言霊と言ひ、其威力の発揚することを、言霊のさきはふ[#「さきはふ」に傍線](又は、さちはふ[#「さちはふ」に傍線])と言うた。
天皇は、天上の神の御言詔《ミコト》を伝達して、其土地の人、及び、魂に命令せられる。其間は、天神と同じになられるのである。
上使が「上意なれば座に直る」などゝ言ふのも、此と同じことである。天皇には、神聖な瞬間が続いてゐるのだから、神であるが、元は、御言詔持《ミコトモ》ちであらせられた。天神の御言詔どほり、其土地に実現なさるのである。
其が後には、天皇の為に、更に御言詔伝達《ミコトモチ》を考へて来た。かうして、実権は次第に、低い位の者の手に下つて行き、武家時代には所謂、下剋上――易経の語を借りて――と言ふ事が、現れて来る。此は、上位の人と、下の者とが、同格になる時があつたのである。
天皇は、天つ神とは、別なお方であるが、同格になられる事があるので、我々の信仰では、天皇と、天つ神とを分つことが、出来なくなつてゐる。ところが、天皇と神との間に、仲だちといふものを考へて来た。信仰上の儀礼で、介添への女がゐる。天皇は、瞬間々々に神となられるが、其より更に、神の近くに生活し、直接に、神の意志を聴くものである。
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aは天つ神。a'[#「a'」は縦中横]は其御言詔持ちなる地上の神。bは介添への女性。a'[#「a'」は縦中横]に仕へねばならない尊貴族、最高位にいらつしやる方に当るbと言ふものは、信仰的にはaの妻であるが、現実的には、a'[#「a'」は縦中横]の妻の形をとる。祭りの時も、此形式をとるものである。
宮廷で、神を祭るのは天皇で、神来臨は、信仰の上のことであつて、神主が即、神であつた。今の神
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