の考へ方が、地方に張つて来たからであると思ふ。
信仰は、神代のまゝでなく、次第に進んで来た。明治以来、昭和の今日に至るまでの間に、神社の組織が、幾度か変つてゐる。単に為政者ばかりの為でなく、自然の要求から、神の位置を高めてゐることは、事実である。何事でも、昔からのまゝと言ふことはない。
少し話が、複雑になつて来たが、やしろ[#「やしろ」に傍線]は、家代と言ふことに違ひない。しろ[#「しろ」に傍線]は、材料といふことであるから、家そのものではなく、家に当るもの、家と見做すべきものといふことである。
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ちはやぶる神の社しなかりせば 春日の野辺に 粟蒔かましを(万葉集巻三)
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春日野に、社がなかつたならば、粟を播かうものを。即、ほんとうの奥さんが無かつたら、私があなたの奥さんにならうものを、と皮肉に言うた、といふ風に釈かれてゐるが、此だけの解釈に、満足してはゐられない。神の社といふのは、今見る社ではなく、昔は所有地を示すのには、縄張りをして、野を標《シ》めた。其処には、他人が這入る事も、作物を作る事も出来なかつた。神のやしろ[#「やしろ」に傍線]
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