ふ。諏訪・三輪の社の有無は、問題外としても、社が無かつたと言ふことは、或神は社が無かつたのだ、と言ふ記憶から出た話である、とだけは言へる筈である。
古くから、天つ社・国つ社と称せられてゐる社のほかに、社の数が、次第に殖えて来た。奈良朝から平安朝にかけて、続日本紀以後の国史を見ると、天皇が、神に位をお与へになつてゐる。此に就いて、仏教では、王は十善、神は九善と称して、王の方が、一善だけ上である。だから王が、神に位を与へるのは、不思議でも何でもないことだ、と後世説明してゐるが、其を待つ迄もなく、天皇は、天つ神として、此世に出現なさつた故に、此土地で、最、尊い神である。だから天皇が、神に贈位せられ、天つ社・国つ社をお認めになるのである。
大昔から、現在のやうに、神社の数が多かつた、と考へるのは誤りである。古代に溯つて行けば、建て物のある神社はなかつたと思ふ。家の中に祭つたものが、神社になつたのであらう。殿に祭られる神は偉い、と考へられる様になると、神が殿に祭られたがりなさると思うて、次第に、殿に祭る様になつて来た。つまり国民が、自分等の周囲の、霊的な力を感ずる能力を増し、その上に、宮廷の神道
前へ
次へ
全64ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング