では、立派に、すさのを[#「すさのを」に傍線]を祭る事になつてゐる。此は、神が代つてゐるのである。
又、信州の諏訪明神は、たけみなかた[#「たけみなかた」に傍線]の神を祭つてゐるのに、中世では、甲賀三郎に変つてゐる。伊吹山の洞穴に、妻覓ぎに行つて、蛇体となつた三郎は、法華経の功徳で、人界に戻つた。さうして死後、諏訪明神となつたといふ。諏訪明神が、蛇体と考へられたのは、新しい信仰ではなく、平安朝末からの事である。浄土宗の説経を集めた、安居院《アグヰ》神道集には、諏訪明神の本地として、右の甲賀三郎の話が出てゐる。此不思議な話の出来た理由は、他の機会に譲るが、何故、かうした信仰が、平安朝の末から、鎌倉時代にかけて、盛んになつたのであらうか。現に法華宗には、諏訪霊王といふものがあるが、甲賀三郎のことである。此は、神が零落した例である。
反対に、神の資格の昇つて来た例も多い。神の資格が昇るにつれて、神社が、国中に一ぱいになつて来た。其は、国家組織の完成に伴うてゐる。古代では、神は、杜《もり》や山に祀られた。此に対しては、反対論もあるが、三輪の神も社がなく、人によつては諏訪明神も、社がなかつたと言ふ。諏訪・三輪の社の有無は、問題外としても、社が無かつたと言ふことは、或神は社が無かつたのだ、と言ふ記憶から出た話である、とだけは言へる筈である。
古くから、天つ社・国つ社と称せられてゐる社のほかに、社の数が、次第に殖えて来た。奈良朝から平安朝にかけて、続日本紀以後の国史を見ると、天皇が、神に位をお与へになつてゐる。此に就いて、仏教では、王は十善、神は九善と称して、王の方が、一善だけ上である。だから王が、神に位を与へるのは、不思議でも何でもないことだ、と後世説明してゐるが、其を待つ迄もなく、天皇は、天つ神として、此世に出現なさつた故に、此土地で、最、尊い神である。だから天皇が、神に贈位せられ、天つ社・国つ社をお認めになるのである。
大昔から、現在のやうに、神社の数が多かつた、と考へるのは誤りである。古代に溯つて行けば、建て物のある神社はなかつたと思ふ。家の中に祭つたものが、神社になつたのであらう。殿に祭られる神は偉い、と考へられる様になると、神が殿に祭られたがりなさると思うて、次第に、殿に祭る様になつて来た。つまり国民が、自分等の周囲の、霊的な力を感ずる能力を増し、その上に、宮廷の神道
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