の考へ方が、地方に張つて来たからであると思ふ。
信仰は、神代のまゝでなく、次第に進んで来た。明治以来、昭和の今日に至るまでの間に、神社の組織が、幾度か変つてゐる。単に為政者ばかりの為でなく、自然の要求から、神の位置を高めてゐることは、事実である。何事でも、昔からのまゝと言ふことはない。
少し話が、複雑になつて来たが、やしろ[#「やしろ」に傍線]は、家代と言ふことに違ひない。しろ[#「しろ」に傍線]は、材料といふことであるから、家そのものではなく、家に当るもの、家と見做すべきものといふことである。
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ちはやぶる神の社しなかりせば 春日の野辺に 粟蒔かましを(万葉集巻三)
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春日野に、社がなかつたならば、粟を播かうものを。即、ほんとうの奥さんが無かつたら、私があなたの奥さんにならうものを、と皮肉に言うた、といふ風に釈かれてゐるが、此だけの解釈に、満足してはゐられない。神の社といふのは、今見る社ではなく、昔は所有地を示すのには、縄張りをして、野を標《シ》めた。其処には、他人が這入る事も、作物を作る事も出来なかつた。神のやしろ[#「やしろ」に傍線]といふのも、神殿が出来てゐるのではなく、空地になつてゐながら、祭りの時に、神の降りる所として、標の縄を張つて、定めてある所を言ふ。その縄張りの中には、柱が立てゝある。
日本紀を見ると、いざなぎ[#「いざなぎ」に傍線]・いざなみ[#「いざなみ」に傍線]の二神が、天御柱《アメノミハシラ》をみたてゝ、八尋殿を造られたとある。これ迄の考へでは、柱を択つて立て、そして、御殿を造つたとしてゐるが、みたてる[#「みたてる」に傍線]と言ふことは、柱にみなして[#「みなして」に傍線]立てる、と言ふ意である。仮りに、見立てるのである。此は、大嘗宮にも、伊勢皇太神宮の御遷宮の時にも、建築に関係のない斎柱《イムハシラ》(忌柱とも書く。大神宮の正殿の心《シン》の柱)と言ふものを立てゝ、建て物が出来た、と仮定してゐるのでも、この意味だといふことが、想像出来る。即、柱を立てると、建て物が出来た、と想像し得たのである。斎柱の立つてゐる所がやしろ[#「やしろ」に傍線]で、其処へ殿を建てると、やしろ[#「やしろ」に傍線]ではなく、みや[#「みや」に傍線]となる。神聖な方の住んでゐられる所は、みや[#「みや」に傍線]である
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