伝へが区々になつたゞけで、常世から出て来る威霊が、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]に著いて、葦原の国を経営する力を、与へたのである。其を、魂と感じた時に、和魂・荒魂の話となり、神と感じた時に、すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]の話となつた。
常世の国から来るのは、大抵小さな神である。譬へば、信州南安曇郡の穂高の社は、物ぐさ太郎の社だといふ(お伽草紙)。つるま[#「つるま」に傍線]の郡あたらし[#「あたらし」に傍線]の郷に流された、公家に出来た子が京に上つて、一度にえらくなるのは、魂が著いたからである。其肝要なところが、此話には脱けてゐる。物ぐさ太郎の話は、穂高の話ばかりでなく、山城の愛宕の本地と、関係が深い。その様な、神の話を持つて歩いた神人が、諸国にゐて、越後から川づたひに、信州に這入つて、根を下したのである。
小さな神が、人間の助けを得て、立派な神になる話は、日本の昔物語・神話に沢山ある。すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]の話も、此である。物ぐさ太郎は、人間が育てゝゐる間に、立派なものになつたのである。ともかく、常世国から渡つて来る、小さな不思議な神は、もとは霊魂の信仰であつた。荒魂・和魂が、時代を経てから、すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]の神に考へられて来た。魂から、神になつて来たのである。かう見なくては、日本の神典の、神と魂との関係は訣らない。この一例によつても、信仰の推移のあつたことは訣ると思ふ。即、宮廷の信仰が最進んでゐたので、其が地方の信仰を、次第に整理して行つたのである。
今述べた例は、純化せられて行つた話であるが、時代を経ると共に、不純になつた例もある。河童は、妖怪の一種のやうに考へられてゐるが、もとは、田に水を与へる、水の神様であつた。其が後に、水を祀るのに、物を賭けるやうになり、かけ物が重く見られて来ると、水欲しさに、命まで賭けて了ふやうになつた。其が何時か、神が命を要求する、といふやうに考へられて、妖怪のやうな河童が、農村に考へられた。逆推すると、河童は、純粋の水の神であつた。即、これは、堕落した神の例である。淫祠・邪神とせられてゐるものゝ中にも、元は純粋であつたものも、多く含まれてゐるのである。
更に考へると、出雲大社にあつても、記・紀では、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の神と教へてゐるのに、中世の事実
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