因縁深くなつてからは、さうした隠約の間の記憶は二つの間に区劃をつけて居るに拘らず、初夢のつき物として、宝船まで二日の夜に用ゐられるのであつた。ともかくも初夢が、元朝目の覚めるに先《さきだ》つて、見られたものを斥《サ》した事は疑ひがない。
処で、宝船の方は、節分の夜か除夜かに使ふのが原則であつた。宮廷や貴族の家々で、其家内に起居する者は勿論、出入りの臣下に船の画を刷つた紙を分け与へることは、早く室町時代からあつた。牀の下に敷いて寝た其紙は、翌朝集めて流すか、埋めるかして居る。だから、此船は悪夢を積んで去るものと考へたところから出た事が解る。今見る事の出来る限りの宝船の古図は、其が昔物ほど簡単で、七福神などは載せては居ない。併しあまり形の素朴なものも却て、擬古のまやかし物と言ふ疑ひがあるから信じられないが、石橋臥波氏の研究によると、荒つぽい船の中に稲を数本書き添へたものが、一等古いものと考へられて居る。画の脇に「かゞみのふね」と万葉書きがしてある。
次は米俵ばかりを積んだ小舟の画と言ふ順序である。こゝまでは疑はしい。が、其後の物になると帆じるしに「獏」の字があり、船の外に[#「又」に似た記
前へ
次へ
全36ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング