ら」に傍線]と、其伝誦者なるゆからくる[#「ゆからくる」に傍線]との存在を聞き出したのである。語部の生活を類推する、唯一の材料を得た訣である。其後、古代欧洲諸国にも、此に似たものゝあつた事を知つた。さうして段々、日本の語部の輪廓の想定図だけは、作つてゐた。其後二十年近い年月に、まあ内容らしいものが膨らんで来たのである。文献の上の証拠は、幼稚な比較法によつた語部の職掌や、社会的地位に関した仮説を、殆、覆し尽した。けれども、私の古代研究は、此仮説を具体化しようとする努力に基いてゐる所が多い。
だから、朝鮮民族や、大陸の各種族の民俗について、全く実感の持てぬ私ではないと信じる。唯、新しい国学の為、古代研究の基礎を叩きあげるには、疑ひなく古代日本の一部を形づくつた、朝鮮や南方支那の漢人種の民間に伝承する習俗すら、私には危くてならぬのである。殊に、頻繁に加つた後入要素の分離が、完全に出来ない間は、出雲人や、但馬人に関した文献上の古俗を、韓人・南方漢種の近代のものに推し宛てる勇気が出ない。又事実、其だけの変化が加つてゐる。
併し、其等の土地に居て、その実感を深める事が出来たら、分離すべきものは分離して、民族的民俗学の第一資料を、思ふに任せて獲る様になるだらう。私一己の学問にとつては、今の中は、其国々からは、有力な比較資料を捜るといふに止めねばならぬ。其地を踏まぬ私は、自然かう言ふ態度を採る外はないのである。今の中、沖縄の民俗で解釈の出来るだけはして置いて、他日、朝鮮や南支那の民間伝承も、充分に利用する時期を待つてゐる。私の文献を活用する範囲は狭い。併し、理会の届かない比較資料を、なまはんか[#「なまはんか」に傍点]に用ゐない覚悟である。
私の本の為に、波多郁太郎さんの作つてくれた索引の効能は、せい/″\此本の索引以上に出ないであらう。なぜなら、新しい研究者の引用に値ひせぬ、あり触れた資料を、私の実感で活してゐるに過ぎないからである。比べて言ふのも憚られるが、私の学問の大先達本居宣長の「古事記伝」がさうである。あの本の索引は、「古事記伝」自身の為以外に、応用の利かないまで、鈴屋の翁は、あり合せの材料で料理し尽してゐる。だからあの本の引用文は、宣長以上に役に立ちさうでなくなつてゐるのだ。伴信友は、典型的な学究態度を持して居たが、彼の珍しく博い材料は、まだ料《レウ》り残したところがある。宣長の方から出た結論に、疑ひを挿まぬ人々も、その態度を学ぶものには、危険を説くに違ひない。信友の方針は、万人拠るべきものとせられてゐる。併し、宣長の仮説が、後学の手で段々具体化せられて来た今日では、誰もその蓋然を呪はない。甚しいのは、翁に数多い、誤つた論理の結果なる仮説さへ、今は定論として信じられてゐる。其と共に、信友の客観性に富んだ結論も、まう改めなければならぬものが多くなつた。
人各、適《フサ》ふ所がある。研究法を以て、研究の最後と見、方法論を以て窮竟地と考へない以上、啓蒙的な意義に於ける正確さをも含んでの論証法の形式を、第一義に置いてばかりも居られない。哲学と科学との間に、別に、実感と事象との融合に立脚する新実証学風があるはずである。一方は固定した知識であり、片方は生きた生活である。時としては、両方ともに、生命ある場合もある。此二つを結合するものが、実感である。かうした実証的な方法を用ゐる事の出来ない、死滅した事象の研究法や、捕捉し難い時間現象を計数の上に立証しようとするのとは、自然違つた方法を用ゐてよい訣である。私の研究は、空想に客観の衣装を被せたものは、わりに尠い。民俗を見聞しながら、又は、本を読みながらの実感が、記憶の印象を、喚び起す事から、論理の糸口を得た事が多い。其論理を追求してゐる間に、自らたぐり寄せられて来る知識を綜合する。唯、其方法は誤らない様に、常に用心はしてゐる。
生きて感じ得ぬ資料を避ける私は、乏しい知識による比較研究によつて、民俗の文献や過去の存在を立証しようとするやうな方法には、年と共に畏れを増して来た。世界共通の伝説の型を解説する様な場合は、気楽になれる。が、実生活の一端として生きてゐるものに対しては、印度・欧洲の暗合を顧慮せねばならぬ。民俗の外的類似から推して、其発源地や、その本義を定める方法を採る事は出来ぬ。だから恥しい程、私の考へは、いつも国中をうろついてゐる。
傀儡子が、東あじあ[#「あじあ」に傍線]大陸に広がつて、朝鮮半島までも来てゐる文献はあつても、それを直に、我が国のくゞつ[#「くゞつ」に傍線]――傀儡子の字面を好んで宛てた――の民の本源だとは信じない。薩満教が如何に、東方に有力でも、日本・沖縄の古来の巫女を以て、其分派と思ふ勇気もない。其を信じ得る時は、即、私自身が実証し得る時である。豊富な資料を自由に活用出来る時でなくてはならぬ。塔が卒塔婆から出、ぱん[#「ぱん」に傍線]が洋人の食料を学んだと言ふ様な伝来の径路の、知れきつたものゝ外は、てら[#「てら」に傍線](寺)なる語が、外来語であると言ふ定説も、ほとけ[#「ほとけ」に傍線]の語原などにも、一応は疑ひを持つて見る必要がある。ふれぃざぁ[#「ふれぃざぁ」に傍線]教授の様に、多くの資料をえ提供しない限り、若干の文献の抜き書きを列ねる位では、唯の比較研究すらも危いと思ふ。茲に、私の眼界の狭く止つてゐる所以がある。
顧みて恥ぢないものがあるとすれば、語原の解釈法である。口頭伝承による詞章ばかりが、存続性を持つた時代には、用語例の理会が、常に変化してゐた。聯想が無制限にはたらくのである。ある一語の語義の固定した時代は、その言語の可なり発達を遂げた後であつた。後世、語原と見做されてゐるのは、わりに、整然とした論理を具へたものである。さうした時代の用例を出発点としてゐる語原説は、発足地に誤謬がある。其以前の自由な時代の形式・内容の変化が、固定した推移の過程は、一向に顧みられないでゐた。品詞や文法の発生を考へる時、我々は常に、ある完成を空想してゐる。
本書中に、みぬま[#「みぬま」に傍線]・みづは[#「みづは」に傍線]・みるめ[#「みるめ」に傍線]・みぬめ[#「みぬめ」に傍線]・みつま[#「みつま」に傍線]・ひぬま[#「ひぬま」に傍線]・ひるめ[#「ひるめ」に傍線]等の形式変化と共に、内容も亦移つて居る事を述べた。而も、聖水及び聖水の使用処なるみつ[#「みつ」に傍線]と言ふ語のみ[#「み」に傍線]は、敬称接頭語と見る俗間語原観から、游離して、つ[#「つ」に傍線]――津――なる単語を発生するに到つた。かうした過程は、つ[#「つ」に傍線]なる単語を、最初のものと定める見地からは、考へられるはずのないものである。そのみつ[#「みつ」に傍線]すら亦聖水以前に、数次の意義変化が考へられる。
又、はな[#「はな」に傍線]と言ふ語にしても、我々は、咲く花を初めから表したものと見て、合理的に語原を考へる。だが、その前に既に、兆象の意義に用ゐられた。農作の豊かなるべきを示すものとして、野山に咲くものを、はな[#「はな」に傍線]と名づけた。兆象の永続せぬ事を見て、脆いことの形容にも、予期に反し易い処から、信頼し難い意にも転用して、はなもの[#「はなもの」に傍線]・はなに[#「はなに」に傍線]などが用ゐられた。而も、神物のしるし[#「しるし」に傍点]とも見る処から、神聖な禁制の義を表して、はなづま[#「はなづま」に傍線]の手触れ難きを表す用語例をも生じてゐる。かうして見ると、木草の花から説き出して、はな[#「はな」に傍線]一類の語原を解説する旧説は、考へ直さねばならぬ。はな[#「はな」に傍線]の語原は、まだ解する事が出来ない。だが、尚溯ると、聖役に仕へる者の頭につけた服従のしるし[#「しるし」に傍点]であつた事もある。土地の精霊の神に誓ふ形式と考へられたものが、神人・巫女の物忌みの標となつたのである。さうすると、兆象以前に、御貢《ミツギ》・魂|献《マツ》りの義があつたらしくも見える。
私の学問は、最初、言語に対する深い愛情から起つたものであるから、自然言語の分解を以て、民俗を律しようとする傾きが見えぬでもない。一時は、大変危い処に臨んで居た。併し、語原探究と、民俗の発生・展開との、正しい関係を知る様になつた。だから、言語の分解を以て、民俗の考察の比較の準備に用ゐ、言語の展開の順序を、民俗も履んで居るかを見る様になつて来た。唯、古代生活は、言語伝承のみに保存せられ、其が後代の規範として、実生活に入りこんだから、古代における俗間語原観を考へる語原研究が、民俗の考察に棄てられない方法である事がやつと訣つて来てゐるのである。
だが、同系語の中、殊に縁の深い言語と謂うても、容易に、古代語の研究に応用することは、やはり危い迷ひ路である。うごなあり[#「うごなあり」に傍線]と言ふ語が、沖縄の近世に生きて用ゐられ、今も先島に残つて居るにしても、「集侍《ウゴナハ》る」と言ふ祝詞の用語とおなじものだと信じてはならぬ。その残り方に、不自然さをまづ感じなければならぬ。おもろ[#「おもろ」に傍線]発想法変改の為の軌範として、祝詞が採用せられた事も考へられないではない。さうした女官としての貴い巫女の間には、万葉・古今・源氏の語も、近代日本語も、一つに用ゐられた形跡がある。さう言ふ人々の唱へる呪詞には、祝詞の用語が移された事もあらう。国々の呪詞の民謡化する事の早い島では、さうした日本の古語を、民謡の上に話して用ゐた例もある様だ。「混効験集」に蒐めた内裏語やおもろ[#「おもろ」に傍線]用語には、さうした過程を経たものも多いと思はねばならぬ。其が、国々に民謡から、対話語となつて使はれたものもあるとしたら、やはり、研究資料には用ゐにくい。却て、外貌の類似の著しくないものから、同系語としての組織の等しさを見出して、役立てねばならぬ事もある。親友伊波普猷さんと、此点について益協同の研究を積んで行かうと思うてゐる。
私の古代言語の研究方法は、この通りである。恥かしい物言ひだが、態度においては、最確かな、学術的なものであり、効果から見れば、古代論理に順応する行き方が、古く合理化せられた物から、原形をひき放して、語原の上に、更に、語原を見出す方法を開いて来た様に思ふ。かうした個々の研究の堆積が、同系語の正しい比較研究を導くだらうと考へる。私の国語研究を疑ふ人は、私だけの方法を持たない人だ、と考へてもよい様に思ふのである。私はまづ其人々に、「古代生活に現れた民族論理」の一篇を読んで貰ひたい。
私の研究の立ち場は、常に発生に傾いてゐる。其が延長せられて、展開を見る様になつた。かうする事が、国文学史や、芸能史の考究には、最適しい方法だと考へる。文学芸術の形式や内容の進展から、群衆と個人、凡人と天才との相互作用も明らかにすることが出来る。
私の態度には又、溯源的に時代を逆に見てゆく処も交つてゐる。これは、民俗学の方法である。同時に、文芸の歴史を見るには、此順逆両途を交々用ゐねばならない場合が多い。
時として、私の叙述が、年代を疎かにしてゐる様に見える事がある。これ亦、民俗学と歴史との違ひである。民間伝承においては、土地と時間とを超越した事象が、屡見られる。殊に、全体としては、百年・千年前に亡びたものが、一地方には保持せられてゐることが、稀ではない。かうした伝承が、古代生活の説明に役立つ。文学や、芸能の発生展開の過程も、地方と時代とに相応することもあるが、其影響を離れて、個々の特殊の形に残る事が、とりわけ多い。此等の遺存を綜合しながらの叙述である為、勢《いきほひ》、時代・年月の印象が薄くなる事もある。曲舞を論ずれば、幸若から逆推して、白拍子の女舞の形態を説く事が便利な事もある。千秋万歳の曲舞から、幸若が分化した道程を示す為には、唱門師の職掌・地位を言はねばならぬ。更に、唱門師と陰陽師との交錯状態をも述べねばならぬ。踏歌のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を説かねば、千秋万歳の芸能の一因の解決がつかぬ。均しく曲舞というても、時代によつて
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