古代研究 追ひ書き
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)境《ミ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|本《もと》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)てあひ[#「てあひ」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)かん/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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この書物、第一巻の校正が、やがてあがる今になつて、ぽっくりと、大阪の長兄が、亡くなつて行つた。さうして今晩は、その通夜である。私は、かん/\とあかるい、而もしめやかな座敷をはづして、ひっそりと、此後づけの文を綴つてゐるのである。夜行汽車の疲れをやすめさせようと言ふ、肝いり衆の心切を無にせまい為、この二階へあがつて来たのであつた。
かうして、死んで了うた後になつて考へると、兄の生涯は、あんまりあぢきなかつた。ある点から見れば、その一半は、私ども五人の兄弟たちの為に、空費して了うた形さへある。
昔から、私の為事には、理会のある方ではなかつた。次兄の助言がなかつたら、意志の弱い私は、やっぱり、家職の医学に向けられて居たに違ひない。或は今頃は、腰の低い町医者として、物思ひもない日々を送つてゐるかも知れなかつた。懐徳堂の歴史を読んで、思はず、ため息をついた事がある。百年も前の大阪町人、その二・三男の文才・学才ある者のなり行きを考へさせられたものである。秋成はかう言ふ、境《ミ》にあはぬ教養を受けたてあひ[#「てあひ」に傍点]の末路を、はりつけもの[#「はりつけもの」に傍点]だと罵つた。そんなあくたい[#「あくたい」に傍点]をついた人自身、やはり何ともつかぬ、迷ひ犬の様な生涯を了へたではないか。でも、さう言ふ道を見つけることがあつたら、まだよい。恐らくは、何だか、其暮し方の物足らなさに、無聊な一生を、過すことであつたらうに。養子にやられては戻され、嫁を持たされては、そりのあはぬ家庭に飽く。こんな事ばかりくり返して老い衰へ、兄のかゝりうどになつて、日を送る事だらう。部屋住みのまゝに白髪になつて、かひ性なしのをっさん[#「をっさん」に傍点]、と家のをひ・めひには、謗られることであつたらう。
これは、空想ではなかつた。まのあたり、先例がある。私の祖父は、大和飛鳥の「元伊勢」と謂はれた神主の家から、迎へられた人である。其前に、家つきの息子がゐた。その名の岡本屋彦次郎を、お家流を脱した、可なりな手で書いたのを見て、幾度か、考へさせられた。四書や、唐詩選・蒙求の類も、僅かながら、此人の稽古本として残つてゐる。家業がいやで、家に居れば、屋根裏部屋――大阪風の二階――に籠りっきり、ふっと気が向くと、二日も三日も家をあけて、帰りにはきつと、つけうま[#「つけうま」に傍点]を引いて、戻つて来たと言ふ。継母の鋭い目を避けて、幾日でも、二階から降りて来なかつた。其間の所在なさに、書きなぐつた往来文や、法帖の臨書などが、いまだに木津の家の蔵には残つてゐる。果ては、久離きられた身となつて、其頃の大阪人には、考へるも恐しい、僻地となつてゐた熊野の奥へ、縁あつて、落ちて行つたさうである。其処で、寺子屋の師匠として、わびしい月日を送つて、やがて、死んで行つた事も、聞えて来たと聞く。夢の様な、家の昔語りの、幼い耳の印象が、年を経るに従うて、強く意味を持つて響いて来る。
かうした、ほぅとした一生を暮した人も、一時代前までは、多かつたのである。文学や学問を暮しのたつきとする遊民の生活が、保証せられる様になつた世間を、私は人一倍、身に沁みて感じてゐる。彦次郎さんよりも、もつと役立たずの私であることは、よく知つてゐる。だから私は、学者であり、私学の先生である事に、毫も誇りを感じない。そんな気になつてゐるには、あやにくに、まだ古い町人の血が、をどん[#「をどん」に傍点]でゐる。祖父も、曾祖父も、其以前の祖《オヤ》たちも、苦しんで生きた。もつとよい生活を、謙遜しながら送つてゐた、と思ふと、先輩や友人の様に、気軽に、学究風の体面を整へる気になれない。これは、人を嗤ふのでも、自ら尊しとするのでもない。私の心に寓つた、彦次郎さんらのため息が、さうさせるのである。
独り身を守り遂げて、我々をこれまでにしあげてくれた、叔母えい子刀自も、もうとる年である。せめて一度は、年よりらしい、有頂天の喜びを催さしてあげたいと思ふけれど、私に、其望みを繋《か》けてゐてくれる学位論文なども、書く気にもなれない。亡い兄も、数年前まで、帰省する毎にくり返したのは、其事であつた。でも、私の根本の憂鬱には、触れるよしもない叔母・兄も、近年すつかり、私に、そんな激励や、要求はせなくなつた。
「家の風をも 吹かせてしがな」と言つた風の、伝統に執する必要のない町人の家庭では、あきらめも早い。それだけに、目上の人々の頑に主張する事をやめてくれたのをよいことにして、其幼い望みを、満足させる気になれない、私の生活気分が寂しまれる。
私は、家びとの望みを卻《しりぞ》けて、国学院に入り、又、そこを出てから二十年、長い扶養を、家から受け続けた。兄も段々あきらめて、私の遊び半分の様な為事の成長を、待ち娯む気になつて居たらしい。「世間的に、役にたゝぬあれ[#「あれ」に傍点]の事だから、一生は、私が見てやります。」こんな事を、親しい隣人たちには、時々、言ふ事もあつた様で、せんもない[#「せんもない」に傍点]私の為事を、無言の柔和な眦で、瞻《ミ》つめて居てくれた。世間から見れば、まことに、未練・無知なひいき[#「ひいき」に傍点]に過ぎなかつたのである。私の一生を、後見るつもりでゐた兄の心が、今では却つて、はかないものになつて了うた。
けれども、兄ひとりが、寂しかつたのではない。私とても、一族を思ひ、身一己を思ふと、洞然とした虚しい心に、すう/\と、冷い風の通ふ様な気がしてならぬ。私の学問は、それ程、同情者を予期する事の出来さうもない処まで、踏みこんで了うてゐる。しんみ[#「しんみ」に傍点]になつて教へた、数百人の学生の中に、一人だつて、真の追随者が出来たか。私の仮説は、いつまでも、仮説として残るであらう。私の誤つた論理を正し、よい方に育てゝくれる学徒が、何時になつたら、出てくれるか。今まで十年の講座生活は、遂に、私の独り合点として、終りさうな気がする。唯珍らし相な主題、伝襲を守るを屑《いさぎよ》しとせぬ態度、私の講義は、かうした意義で、若い人気を、倖に占め得た事もあるに過ぎない。兄の理会のない身びいきも、結句、あり難く思はれて来る。
でもまだ/\、兄のうへを越す無条件の同情者が、尠くとも一人は、健在してゐる。前に述べた叔母である。私の、此本を出さうと決心した動機も、この人の喜びを、見たい為であつた。だから第一本は、叔母にまゐらせるつもりである。叔母は必、かこつであらう。かういふ、本の上に出た、自分の名を見ることのはれがましさの、恥ぢを言ふに違ひない。兄が、かうなると思はぬ先から、私の考へてゐた事なのである。叔母に捧げる志は、同時に、兄の為の回向にもなつてくれるであらう。
学問の上の恩徳を報謝するためには、柳田国男先生に献るのが、順道らしく考へないではない。でも、その為には、もつと努力して、よい本を書いてからにせねばならぬ気がする。其ほど、先生の学問のおかげを、深く蒙つてゐるのである。先生の表現法を摸倣する事によつて、その学問を、全的にとりこまうと努めた。先生の態度を鵜呑みして、其感受力を、自分の内に活かさうとした。私の学問に、若し万が一、新鮮と芳烈とを具へてゐる処があるとしたら、其は、先生の口うつしに過ぎないのである。又、私の学問に、独自の境地・発見があると見えるものがあつたなら、其も亦、先生の『石神問答』前後から引き続いた、長い研究から受けた暗示の、具体化したに過ぎないのである。
其ほど、先生の学問の領域は広く、さうして、深く人を誘惑せずには居ないものである。私は、此学問の草分けに、かうした人を得た、日本の民俗学のさいさき[#「さいさき」に傍点]のよかつた事を思ふ。さうして、不肖ながら、其直門として、此新興の学徒の座末に列する事の出来た光栄を、不思議とさへ考へることがある。今では、先生の益倦まぬ精励が、我々の及ばぬ処までも、段々進んで行つて居られ、新しく門下に参じる人たちも、殖えてゆく一方である。或は心理学的に、社会学的に、日々新しい研究法を加へて行かれる姿がある。発足点から知つた私自身は、一次・二次のものに、固執してゐるかも知れない。使徒の中、最愚鈍な者の伝へた教義が、私の持する民俗学態度かも知れない。併しながら、私は先生の学問に触れて、初めは疑ひ、漸くにして会得し、遂には、我が生くべき道に出たと感じた歓びを、今も忘れないでゐる。この感謝は、私一己のものである。先生に向うて、日本民俗学の開基を讃へる人は、別にあらう。その意味においては、此本は恥しながら、槃特《はんどく》が塚に生えた忘れ茗荷の、一|本《もと》に過ぎない。兄の扶養によつて、わびしい一生を、光りなく暮さねばならなかつた、さうして、彦次郎さん同然、家の過去帳にすら、痕を止めぬ遊民の最期を、あきらめ思うてゐた私の心に、一道の明りのさす事を感じたのである。
其は、新しい国学を興す事である。合理化・近世化せられた古代信仰の、元の姿を見る事である。学問上の伝襲は、私の上に払ひきれぬ霾《ヨナ》の様に積つてゐた。此を整頓する唯一つの方法は、哲学でもなく、宗教でもないことが、始めてはつきりと、心に来た。先生の学問の、まづ向けられた放射光は、恰も、私の進む道を照してゐたのである。秋成や守部の様な批評家でない自分は、憂鬱な伝統知識の圧《オ》しの下に、何だか、不満な気分を抱いてゐたばかりであつた。其が、微かながら、跳ね返す力を得て来た訣である。個々の知識の訂正よりは、体系の改造である。彼二人の皮肉屋の、閃く如き鋭さよりは、重胤の、鈍い重さの広く亘る力を思ふべき気稟であつた。新しい国学は、古代信仰から派生した、社会人事の研究から、出直さねばならなかつた事を悟つた。此民間伝承を研究する学問が、我が国にもないではなかつたが、江戸末の享楽者流・銷閑学者の、不徹底な好事、随筆式な蒐集に止つてゐた。だから、民俗は研究せられても、古代生活を対象とする国学の補助とはならなかつた。むしろ、上ッ代ぶり・後《オト》ッ代《ヨ》ぶりの二つの区劃を、益明らかに感じさせる一方であつた。私は、柳田先生の追随者として、ひたぶるに、国学の新しい建て直しに努めた。爾来十五年、稍、組織らしいものも立つて来た。今度の「古代研究」一部三冊は、新しい国学の筋立てを摸索した痕である。
此書物の中から、私の現在の考へ方を捜り出さうとするのは、無理である。実は、今におき、悩んでゐる。日々、不見識な豹変を重ねてゐるのだから。
国文学篇の最初の「国文学の発生」は、あの上に今一つ、第五稿を書きさしてゐる。四つの論文をお読みになつた方は、定めて、呆れて下さつた事であらう。民俗学篇でも、「村々の祭り」と「大嘗祭の本義」との間には、実際、御覧に入れたくないほど、考への変化がある。この論文は、半年も立たぬ間に、出来たものなのである。其でゐて、かうである。かうした真の意味の仮説を、学界に提供する事は、わるいとも言へよう。又、よいとも言へる。其は、結論を度外視した顔のとりすました学者の為に、一人で罪を負ふ懺法としての、役に立ちさうだからである。慎重な態度を重んずる、庠序学派の人々は、此を、自身の学問と一つに並べるをさへ、屑しとせないであらう。殊に、民俗学の世界的権威にして、我々が「あがほとけ」とも斎くべきふれぃざぁ[#「ふれぃざぁ」に傍線]教授も、その態度からは、かう言ふ発表方法を認めない事が、明らかである。出来るだけ、揺ぎない道を立てようとする。其方法としては、及ぶ限り資料を列ねて、作者の説明がなくとも、結論は、自然に訣る様になつてゐる。我が柳田先生も亦、此態度
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