を以て、整然たる論理の径路を示して居られ、さうして度々、其形式や結論において、世界の宿老教授を凌ぐ研究をすら、発表してゐられる。私は、かうした努力に対して、虔しい羨みを、常に抱いてゐる。だが、性格的に、物の複雑性――よい意味ばかりでなく――を見る私は、一行の読書にも、数項の旁線を曳かねばならぬほど、多くの効果を予期する暗示を感じる。其で、一冊の書物を読み上げる事が、非常な努力であつた時期がある。先生の勧めによつて、読書法を改めた頃の事であつた。さうして、引いた旁線の部分を、かあど[#「かあど」に傍線]に収める事が、亦、容易ではなかつた。その頃はまだ、記憶も衰へなかつた。唯さへ遅読の私は、かうした方法を採つた為に、本の内容に、深入りし過ぎた。読みで[#「読みで」に傍点]はあつても、読み量《ガサ》の少い方法に甘んじる様になり、ひき出しの摘要書きの範囲の広く及ばないのに焦《ヂ》れて、遂には、かあど[#「かあど」に傍線]の記録を思ひ止る様になつた。其以来唯、記憶及び記憶の下づみになつた、数多の知識の印象の、随時の活動に、たよる様になつて来た。だが、今は読書の印象も段々薄らいで、改めて、かあど[#「かあど」に傍線]を要する老いを覚え初めてゐる。
だが強情な私はまだ、思うてゐる。我々の立てる蓋然は、我々の偶感ではない。唯、証明の手段を尽さない発表であるに過ぎない。世の論証法も、一種の技巧に過ぎない場合が多い。ある事象に遭うて、忽、類似の事象の記憶を喚び起し、一貫した論理を直観して、さて後、その確実性を証するだけの資料を陳ねて、学問的体裁を整へる、と言つた方式によらない学者が、ないであらうか。つまりは、蓋然を必然化するだけの事である。而も、その必然化せられたと見える研究にすら、認識の不徹底が煩ひして、結論を誤らしめてゐる事が多い。蓋然の許されてゐる、哲学的の思索を改めて、実証化したぶんと[#「ぶんと」に傍線]等の研究が、常に、正しい結論に達してゐるとは云へない。やはり、論理に、飛躍が含まれてゐる。知識と経験との融合を促す、実感を欠いた空想が、多く交つて居る。われ/\には其が、単なる弁証にしか過ぎなく思はれる事さへある。
東海粟散の辺土に、微かな蟇の息を吐《ツ》く末流の学徒、私如き者の企てを以てしても、ふれぃざぁ[#「ふれぃざぁ」に傍線]教授の提供した証拠を、そのまゝ逆用して、この大先達のうち立てた学界の定説を、ひつくり返すことも出来さうな弱点を見てゐる。だから、立証すべき信念と、その土台となる知識の準備とを、信頼してよい学者の立てた仮説なら、その解釈や論理に、錯誤のない限りは、民俗学上に、存在の価値を許してよいと思ふ。これを更に、必然化する事は、論者自身或は、後生学者の手でせられてもよいはずである。かう言ふ、自身弁護を考へて後、わりに自由に、物を書く様になつた。唯、柳田先生の表現方法から、遠ざかつて行く事を憂へながらも。私は、自身の素質や経験を、虔しやかな意義において、信じてゐた。だから、私のぷらん[#「ぷらん」に傍線]に現れる論理と推定とが、唯、資料の陳列に乏しい事の外、そんなに寂しいものとは思はなくなつた。虚偽や空想の所産ではないと信じて、資料と実感と推論とが、交錯して生まれて来る、論理を辿る事に努めた。
私は、過去三十年の間に、長短、数へきれぬほど旅をして来た。その中でも、近い十五年は、旅をする用意が変つて来た。民間伝承を採訪する事の外、地方生活を実感的にとりこまうと努めた。私の記憶は、採訪記録に載せきれないものを残してゐる。山村・海邑の人々の伝へた古い感覚を、緻密に印象してえた事は、事実である。書物を読めば、此印象が実感を起す。旅に居て、その地の民俗の刺戟に遭へば、書斎での知識の聯想が、実感化せられて来る。
私は、人類学・言語学・社会学系統の学問で、不確実な印象記なる文献や、最小公倍数を求める統計に、絶対の価値を信じる研究態度には、根本において誤りがあると思ふ。記録は、自己の経験記以外のものは、真相を逸した、孫引き同様の物となることが多い。計数によるものは、範疇を以て、事を律し易い上に、其結論を応用するには、あまり単純であり、概算的である。比較研究は、事象・物品を一つ位置に据ゑて、見比べる事だけではない。其幾種の事物の間の関係を、正しく通観する心の活動がなければならぬ。此比較能力の程度が、人々の、学究的価値を定めるものである。だから、まづ正しい実感を、鋭敏に、痛切に起す素地を――天稟以上に――作らねばならぬ。而も、機会ある毎に、此能力を馴らして置く事が肝腎である。
比較能力にも、類化性能と、別化性能とがある。類似点を直観する傾向と、突嗟に差異点を感ずるものとである。この二性能が、完全に融合してゐる事が理想だが、さうはゆくものではない。
私には、この別化性能に、不足がある様である。類似は、すばやく認めるが、差異は、かつきり胸に来ない。事象を同視し易い傾きがある。これが、私の推論の上に、誤謬を交へて居ないかと時々気になる。「無頼の徒の芸術」その外に出た、念仏芸能の観察が、私には、定説としての確さを持つてゐるが、他人には納得させにくい。最親しい旧友で、厳重に考証態度を守つてゐる若い正史編纂者の、微笑と渋面とを交へた抗議を受けたのも、其為であると思ふ。これは差異点の説明に、巧でないからである。踏歌・呪師・田楽・鎮花祭舞踊の文献や、残形を見ると、念仏踊りの要素となつたものが、うんとある。殊に、実地に見て歩いた経験を比較すると、田楽・念仏の共通点ばかりが目について、従来考へられて来た様な区劃は、心の中に没して了ふ。念仏踊りや念仏宗などの起原や相互作用の、鎮花祭や、祇園御霊祭りや、田楽などにある事が覚られる。けれども、其分派の状態や、世間が持つてゐた差別観の根拠などは、も一つ茫漠としてゐる。
近代の田楽には、念仏踊りに近い行道や、群舞の様式が、主とせられてゐるのも、事実である。念仏踊りの中にも、田楽能から移したらしい能狂言――物まね狂言――や、村|群行《ワタリ》や、家ぼめのことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]が行はれて居る。呪師系統の田楽は、約束どほりの服装に、編木《ビンザヽラ》を持ち、田楽鼓を腰にし、一様に藺笠を頂くのを目標とする事が出来るが、巫女田楽では、既に違ふ。村田楽や法師田楽などの形は、古い絵を見ても、違うてゐる様だ。竹の簓を摩り、大太鼓を吊り下げ、唯の晴れ着らしい物を着て、笠を冠るのも、鉢巻きをするのもある。法師田楽になると、大太鼓の代りの鉦鼓を、重さの為に高く吊り、おなじ田の行事なる鎮花祭の悪霊逐ひの念仏踊りと、田の祝福の田楽とを混淆して、踊るのも其はずである。
呪師系統の田楽で、大切な芸になつてゐる手品・軽業の類は、正式の田楽風を存する処にも、後には、行はれなくなつて居る。曲芸を忘れた芸能は、田楽としての要素を、既に、落してゐるのである。編木も簓も知らず、幸若の様な扮装をして出る遠州旧奥山村の田楽には、尚曲芸の形式だけは行ひ、又、他処には忘れられた田楽能――能楽要素を多くとりこんだ――を演じて居る。呪師田楽の地方的本拠なる伯州大山寺に近い、出雲西南の社々には、田楽の変体らしい傘鉾行列の群舞を行うてゐて、而も、念仏踊りと称へて居る。
かうした村田楽の、念仏踊りの古い時代に、念仏聖一派の手で、専門の芸能として行はれたものが、時の好みを逐うて、小唄踊りや、狂言をとり容れ、其が、巫女を主役とする様になると、お国を代表者とする新念仏踊りとなつた。念仏踊りなるが故に、巫女の資格の芸能人も、聖の男踊りの姿に扮することを、序開きの条件とし、其後は、巫女舞ひから、多くの小唄組み踊りを演じた。又狂言には、当世風流の寛濶ぶりをうつして、歌舞妓芸を創作する様になつた。
田楽・念仏の類似点から推した関係は、この様に複雑だが、さて、境界線を画する段になると、現存のものだけについてさへ、判然たる断言を下すことが出来ないのである。まして、近古・近世に亘つては、本質的な差異を鑑別する力が、実感となつては、私には、浮んで来にくい。文学・芸能の複雑な共通点は見えても、これを単純な、別々の元の姿に、還して来る能力には劣つてゐる。
私は、沖縄に二度渡つた。さうして、島の伝承に、実感を催されて、古代日本の姿を見出した喜びを、幾度か論文に書き綴つた。其大部分は、此本に収められてゐる。私のよい同行の友人の中にも、既に、南島研究に執する私の態度に飽いて、忠告と嘲笑とを、交々する人さへある。相違といへば、其間に、私は唯一つ、沖縄語と日本語との本質的な差異を、見出したばかりであつた。文法や語彙の類似にも、内外学者の言語学上の定説ほどの一致はない、といふ事である。二つの国語は、あまりに早く別れて居た。その後発達した特殊な組織が、複雑化した中央日本語との間には、相違があり過ぎる。言語の同系は事実に違ひないが、意外に距離のある事が、私だけには証明出来だして来た。語根の品詞化する方法が、第一に違ふ。殊に親近なるを思はせた用言形式の類似が、実は、分離後の発達であることを示すものだ、と知れた。両者の近代語に、類似したものゝ多いことは、記録・文学や上流用語として、日本語の利用せられたものが、組織等しい文法の中に入りこんで、自由に変化させられたからである。私はかう言ふ風に、日琉分離の時代を、極めて古く考へてゐる。単に、言語の上からばかりで、同族論を主張することを危み出した。
だが、其外の民間伝承、殊に、信仰生活については、我々の古代生活様式の、遺存して居る事を疑ふだけの別化性能の活動は、まだ起らない。本質的同型と、偶発的の一致とを区別してかゝらぬ研究は、根柢において誤りがある。印度や、極北あじあ[#「あじあ」に傍線]の民俗が、比較研究や、発生的論証には役立つても、祖先の古代生活を考へるためには、単に、反省を促す補助資材たるに過ぎない。民俗学の為には、此方法は、必履まれねばならぬ。だが、民俗学の一分科としての民族的民俗学には、第一資料を、比較資料の先に据ゑなければならぬ。私の沖縄研究は、此立ち場から、まだ、古代研究の為の実感を催す力を失うて居ない。
私は、国学院在学中、四年間、朝鮮語を習ひとほした。手ほどきから見て貰うた本田存先生の後は、金沢庄三郎先生の特別な心いれを頂いた。朝鮮語に就いては、相当の自信もあつた。卒業間際になつて、ほんの暫らくではあつたが、外国語学校の蒙古語科の夜学にも通うた。金沢先生の刺戟から、東洋言語の比較よりする国語の研究に、情熱を持つた為であつた。まだお若かつた金田一京助先生には、あいぬ[#「あいぬ」に傍線]文法の手ほどきを承つたが、この方はなぜか、ものにならなかつた。恐らく短期の演習として、過ぎたからであらう。あいぬ[#「あいぬ」に傍線]語の練習を後廻しにしてゐるうちに、外国語に対する私の頑冥な偏僻が、これ等の東洋語の記憶をすら妨げて居る事が、段々訣つて来た。それで、あいぬ[#「あいぬ」に傍線]語までは、手が届かないで了うた。でも、この先生の新鮮な感覚によつて蘇らされたあいぬ[#「あいぬ」に傍線]の文法の講義や、座談には、衝動に堪へぬほど、多くの暗示が籠つてゐた。未開時代の種族・社会に偶発する共通民俗も、あいぬ[#「あいぬ」に傍線]の場合は、東方日本の先住民として、民族的交渉の程度に疑ひのあるだけ、殊に注意は緻密にならないでは居ない。
その頃一方に、律文学の文学史に最、興味を持つてゐた。語部なる部曲については、古史伝以外には、まだ明確な、記述も研究もなかつた。ある時、重野安繹博士の国史綜覧稿の出版に臨んで、何かの意味を持つて催された講演会で、始めて偶像破壊者と謳はれて来てゐた翁の口から、語部の話を聞いた時は、此部曲の職掌について、一点の疑ひもない定説が、発表せられたものだと信じた。其と共に、我が古代社会の指導力としての詩のあつた事を知つて、心躍りを禁ずる事が出来なかつた。かうした興味を持つた私が、先生から、あいぬ[#「あいぬ」に傍線]の詞曲ゆから[#「ゆか
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング