、内容が替つて居るのに拘らず、変化の尠い地方もある。年代の交錯して居るのは、一つは私の叙述法の拙劣なのにもよるが、方法自身、本質自体に、さう言ふ処があるからでもある。
此本をまづ整頓した形にしてくれたのは、私の国学院での最若い「臨時代理講師」時代から、私の講義を聴き続けて来てくれた、今の国学院大学教授今泉忠義さんである。この場合に言ふも変だが、私の民俗学に対する熱情は、此人及び谷川磐雄さん・高崎正秀さんの学生時代の清らかな心によつて煽られた事が多いことを述べて置く。次には、横山重さん・波多郁太郎さんの、恥しい私の書き物に対する、愛の充ちた編纂整理の上の御苦労を感謝して置かねばならぬ。殊に郁太郎さんには、此乱雑な文章集の為の、索引を作つて貰うたことをくり返して置きたい。
三冊を通じて、口だての筆記文が、大分交つてゐる。これでは随分、友人北野博美さんのおせは[#「おせは」に傍点]になつてゐる。其雑誌の為に、私の講義・座談を書きつゞめて、めんどうな私の発想法に即きつ離れつして、大抵の人に訣る程度にして下された友情を、あり難く思ふ。かうでもして頂かぬと、発表し渋る私なのである。国学院雑誌記者時代の、宮西惟喬さんを煩した物も二三ある。
古い物では、家の鈴木金太郎や、油絵の伊原宇三郎さん・水木直箭さん・牛島軍平さん・三上永人さん・今泉忠義さんなどにおしつけて、筆記や、書き替へをして貰うた横著の記憶がある。
近いところでは、袖山富吉さん・小池元男さん・小林謹一さん・向山武男さん・岡本佐※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47]雄さん等の講演のうと[#「のうと」に傍線]も、貸して貰うた。速記者のとつてくれたのも、少しあるが、殊に、認識不十分・表現不完全な、昂《カミ》づった様なものになつてゐる。大岡山が、さう言ふ物までも、一応まとめて置くがよからう、と慂めてくれたから、つひ[#「つひ」に傍点]其気になつたのである。
今になつて、出さなかつたらよかつた、と思はれる未熟な論や、消え入りたい文句などが、ひよい/\と思ひ出される。大方《たいはう》の同情を以て、見のがして置いて頂きたい。あまり恥しいのは、却て何時か、書き直す衝動をつくることになり相に思ふ。
此本は三冊ながら、極めて不心切なところの多いのをおわびする。殊に、文章を解説するはずの写真図が、肝腎の本文なしに挿まれてゐて、却て画の為の解説のないことを、不審に思うて頂かねばならぬ事になつたのが多い。さう言ふ図は、出板当時の作者の心を唆り立てたものである。二冊のどれかに、大なり小なり関係のありさうな物を用意して置いたところが、其図に関係した文章が出ずじまひになつたり、思ひ違へから、とんだ場処に挿んだりして了うたのである。
「たぶ」の写真の多いのは、常世神の漂著地と、其将来したと考へられる神木、及び「さかき」なる名に当る植木が、一種類でないこと、古い「さかき」は、今考へられる限りでは、「たぶ」「たび」なる、南海から移植せられた熱帯性の木である事を示さう、との企てがあつたのだ。殊に肉桂たぶと言はれる一種が、「さかき」のかぐはしさを、謡ひ伝へるやうになつた初めの物か、と考へたのである。殊に、二度の能登の旅で得た実感を、披露したかつたのである。此側の写真は、皆藤井春洋さんが、とつてくれたのである。
文学篇の扉の処に出した「八百比丘尼」の石像は、四年前の正月、伊豆稲取のれふし[#「れふし」に傍点]町で見つけたもので、おなじ本の中にある房主頭の「さいの神」、帳面をひろげた女姿の「さいの神」らしいものとの間に、すゑてあつたのである。此神像は、土地の人すら、唯「さいの神」とより、今では考へて居ない様だ。が、左に担げた、一見蓮華らしい手草《タグサ》が、葉の形から、椿と判断する外ない。八百比丘尼の信仰の造形記念物としては、今日の処、此石像より知らない私は、非常に喜んだ。其後、伊豆大仁在の穂積忠さんに頼んで、とつて頂いてあつたのを出さずには居られなくなつた。この三枚の写真の作者は、名を入れ落したが、穂積忠氏作と書き入れて貰ひたい。この人の学生時代、郷土研究会で報告した「伊豆のさいの神」の信仰を、新しく憶ひ起したことであつた。近代のは皆房主頭で、地蔵様との区別がなくなつてゐる様である。その配偶なる女性が、八百比丘尼と結びついた径路を思はせたかつたのである。椿も亦、上代から見える神木で、市の祭りに臨む神の手草・杖であつた。山から神聖な男・女の里の鎮魂に携へ来る木である。其枝を杖にする山の神女が、山姥となる一方、不死の八百比丘尼の信仰が出来ても、手草はやはり、椿であつた。旧《フル》年に花さく山茶花は、椿の字を宛てる花木の元の物である。それに代へて、今の椿を用ゐる様になつたのだ。海には「たぶ」、山には「つばき」、この信仰の対照を見せたかつた点もある。民俗篇一の「たぶと椿との杜」の写真は、さうした意味から出したのである。
八百比丘尼を採つた第一の理由は、別にある。漂浪する巫女の神語りとしての文学は、古代の海部――或は、山部――其後の「くゞつ」・「ほかひ」から、近代まで筋を曳いてゐる。盲御前《ゴゼ》・歌占の類から、念仏比丘尼・歌順礼の輩の生活が其である。
八百比丘尼を中心として、かうした因縁語りが、長い連環をなしてゐる。日本文学の発生を説く事に力を入れたあの本には、適当らしく考へられたのであつた。当時、私は凝視点を、口頭詞章の上に据ゑる方法を、国文学史の上に試みを積んで、稍自信の出かけた際であつた。此態度を表白するには、此上もない物と考へずに居られなかつた。
今度の本の巻頭は、又「たぶ」の木である。海から来る神と、海ぎはの崖に聳える神木との関係を想ひ見るに、一番叶うたもの、と見立てゝ置いた土地の写真が、遅れて手に入つたので、棄てられない事になつた。三河北設楽の山村の写真は、早川孝太郎さんの作で、花祭りなる神事舞踊を行ふ山人の生活と、環境とを想うて貰ひたかつたのである。念仏踊りの陰惨な古い面形は、あれを、壬生の寺で見た時の、ぎよっとした気持ちを以て、念仏芸能の古形を考へたかつた為だ。文学篇の「文学の唱導的発生」に説いた念仏にも、狂言――或は特に、歌舞妓狂言――の発生、分化にも、暗示を含んだものとして、地平社発行の民俗芸術写真集から、借用することにした。色彩から来るいやらしさ[#「いやらしさ」に傍点]が、写真には出ないのは、せんもない。沖縄の分は、凡私が、見当知らずにとつたもので、中には、二度目に同行した、三上永人さんの作も交つてゐる。壱岐の島の図は、亦私の写した中から出した。一枚だけ、絵はがきを複製した。後に出来た要塞地帯の規則に触れない様にと思ふので、執著ある絵も出さなかつた。人形芝居の処に挿んだ写真や銅版画などは、北野博美さんが、人形芝居号の為に、蒐集して出されたものを借用する。その中には、宮良当壮さんの見とり図もある。念仏者の用ゐた人形は、其前年私も写したが、此方が勝れてゐるから、転載させて貰うた。
横山重さんは、私の学問――と言へるならば――に、しん底から愛を持つてくれてゐる。時には脇で言ひふれてゐると言ふ、私への「ほめ詞」を又聞きに耳に入れてくれる。消え入りたい思ひをした事も、二度三度ではない。其ほかにも、一人や二人は、私の行き足をなごやかな眦で見つめてゐてくれる同情者のあるを感じてゐる。けれども、さういふ快い慰撫に甘える事が、直に情なくなる。私はさうした事にあふ毎に、虔ましさに立ち直るだけの心は落して居ない。だから、殊に大岡山から、こんな書物を出す事は、すまない気がする。けれども、此をさへ歓んでくれる心に負けて、とう/\ひき続けて、三冊までも、板にして来た。殊に此巻などは、殆、随筆集と言はれても、為方のない断篇が多い。夢の様に書き続けた草稿は、まだ/″\ある。併しやつと、訣つて頂け相な文章と言へば、此だけであらう。
私は、世に拡《ハヾ》かる様な乗り気で、こんな物を出したのではない。もつとよい物を、寂かな心で書きたい。悔いの少い本を出したい。さうは思うてゐる。だが、今の処、大岡山の好意に酬いるにも、此だけの成迹を提供する外はないのであつた。



底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店
   1930(昭和5)年6月20日
※底本の作品名「追ひ書き」に、収録書籍名の「古代研究」を補い、表題を「古代研究 追ひ書き」としました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月8日作成
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