#「かあど」に傍線]を要する老いを覚え初めてゐる。
だが強情な私はまだ、思うてゐる。我々の立てる蓋然は、我々の偶感ではない。唯、証明の手段を尽さない発表であるに過ぎない。世の論証法も、一種の技巧に過ぎない場合が多い。ある事象に遭うて、忽、類似の事象の記憶を喚び起し、一貫した論理を直観して、さて後、その確実性を証するだけの資料を陳ねて、学問的体裁を整へる、と言つた方式によらない学者が、ないであらうか。つまりは、蓋然を必然化するだけの事である。而も、その必然化せられたと見える研究にすら、認識の不徹底が煩ひして、結論を誤らしめてゐる事が多い。蓋然の許されてゐる、哲学的の思索を改めて、実証化したぶんと[#「ぶんと」に傍線]等の研究が、常に、正しい結論に達してゐるとは云へない。やはり、論理に、飛躍が含まれてゐる。知識と経験との融合を促す、実感を欠いた空想が、多く交つて居る。われ/\には其が、単なる弁証にしか過ぎなく思はれる事さへある。
東海粟散の辺土に、微かな蟇の息を吐《ツ》く末流の学徒、私如き者の企てを以てしても、ふれぃざぁ[#「ふれぃざぁ」に傍線]教授の提供した証拠を、そのまゝ逆用して、この
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