。この二つの思が、心の内にほのかに争うて居る。自分が、夕空に対うて居るのも、幾分の心頼みがあるから、君待ちがてら端近う出て居るのである。しかし、思へば、万が一にも、もうおいでになるよしはないのである。それに何とて、さりとも君の来まさじやはと、待つやうな心になるのであらうか。わが待てる夕暮は君の来ますべき夕にもあらじを、おぞや何に君待つ心になるのであらうか。わが方に来まさずと知りつゝ、しかもさりともと心頼みがおこる。さても誰が夕ぐれとてか、君を待つやうな心になるのであらうと、大体は、かういふ意味である。誰が夕ぐれとは、我夕ぐれを前に否定したのに、尚その心持が残つて居るのを、さらば誰が夕ぐれとしてゞあるかと、ほのかに客観的の立脚地をとつたのである。斯くしてこそ、下のらむ[#「らむ」に傍点]と相呼応して居るのである。
「または」を、「またば」と読むと、誰が夕ぐれが利いて来ない。「またば」と読むのは、またば来まさむといふ文の摘象《テキシヤウ》文であらうが、雲の色に、何の連絡もないではないか。これを助けて釈《ト》くと、自分は、雲の出て居る夕空に対ひながら、かうして待つて居れば、その中においで下さ
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