は、語源を異にして居る別種の語であるが、和歌には、盛《サカン》にこの語を両様にかけて用ゐたために、古典研究者の頭には混同せられて、今では殆ど両意融合といふ塩梅になつたのであるが、もと/\別種の語であつたには違《ちがひ》なからう。この語の内容には、霖雨《リンウ》(ながめ)、長《ナガ》むなどいふ別種の言語の感じも伝習的に附け加へられて、一種の憂鬱な思《おもひ》に耽つて居る時分の有様を表はすに適当な語となつて居るが、「眺」の意は、明かに存して居る。それで、多く和歌には、ぽかんとして思に耽つて、何処とあてど[#「あてど」に傍点]もなく見入つて居る心持に多く用ゐて居る。
□たが夕ぐれ この語は、新古今時代の流行語であつたらしい。多分家隆卿の
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知られじなおなじ袖にはかよふともたが夕ぐれとたのむ秋風
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がもと[#「もと」に傍点]で、他の人々が、皆これに模倣したものと思はれる。後鳥羽院にも定家卿にも、土御門院にもある。用法は、人々によつて多少違つて居るやうであるが、この場合の「たが夕ぐれ」は、家隆卿のものと似て居る。
□または これを「またば」とは[#「は」に傍点]を濁音に見ても、一応の解釈はつくが、大分無理があるやうである。これは、必ず清《ス》んで読んだものに違ひなからう。尚このことは後に論ずるつもりである。
○これには、幾通りも解釈がつくが、今は正しいと思ふものから述べて、その間に一々評論を試みようと思ふ。
玉葉には、はし書はない。もとからあつたのでもなからうが、試《こころみ》にこれに序をつけて見ると、「あるをとこ久しくおとづれせざりける女の方より」とでもあつたならばよからうと思ふ。夕ぐれは淋しいもの、雲の立居もたゞならぬ空に向うて、心細い思ひに耽る時の心持をのべたものである。
君はすでにとだえて久しくなつた、何のおとづれもない。雲のたゝずまひもたゞならぬ夕空に向うて思に耽つて茫として居る。しかも、心の中には、始終君のとだえを嘆いて居る。もう二度とは吾家へ来ますことはあるまいと、外界《ゲクワイ》の物淋しい景色に心のよすがなく、悲しい考のみが浮んで来る。もう君はお出でになることはない。さりながら、下には尚幾分の心頼みが潜んで居る、君来ませといふ希望の心は変じて、君来まさむといふ期待になる。しかも、実際は、もはやとだえた間柄ではないか
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