。この二つの思が、心の内にほのかに争うて居る。自分が、夕空に対うて居るのも、幾分の心頼みがあるから、君待ちがてら端近う出て居るのである。しかし、思へば、万が一にも、もうおいでになるよしはないのである。それに何とて、さりとも君の来まさじやはと、待つやうな心になるのであらうか。わが待てる夕暮は君の来ますべき夕にもあらじを、おぞや何に君待つ心になるのであらうか。わが方に来まさずと知りつゝ、しかもさりともと心頼みがおこる。さても誰が夕ぐれとてか、君を待つやうな心になるのであらうと、大体は、かういふ意味である。誰が夕ぐれとは、我夕ぐれを前に否定したのに、尚その心持が残つて居るのを、さらば誰が夕ぐれとしてゞあるかと、ほのかに客観的の立脚地をとつたのである。斯くしてこそ、下のらむ[#「らむ」に傍点]と相呼応して居るのである。
「または」を、「またば」と読むと、誰が夕ぐれが利いて来ない。「またば」と読むのは、またば来まさむといふ文の摘象《テキシヤウ》文であらうが、雲の色に、何の連絡もないではないか。これを助けて釈《ト》くと、自分は、雲の出て居る夕空に対ひながら、かうして待つて居れば、その中においで下さるであらうとながめて居る。しかしながら、他にまた君のかよふところがあつて、誰かゞ我夕ぐれと心頼みに君を待つて居るだらうかといふことになる。これは「誰が夕ぐれ」を、誰が方へ行く夕ぐれの摘象文と見ずして、「誰が」と「夕ぐれ」とを離して、「夕ぐれ」を我夕ぐれなりの摘象文、即「誰が」を「頼むらむ」の主格とした場合である。
また「頼むらむ」の釈き方によつては、聊か変つた方面がある。それは、下二段に働く「頼む」で、頼ませるといふ意に解するのであるが、さすれば、君といふ語の格が変つて主格となる。
この釈き方は、上の句の意を三様にかへてもつゞく。
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一、君はもはやおいでになるまいと思へる夕ぐれに、何とて彼の君は「今宵は誰が夕ぐれならむ 我方に来ますべきか」と頼ましむるのであらう。
二、君が再び(は[#「は」に傍点]を反語とは見ず)おいでにならうと心待ちの夕ぐれに、誰が夕ぐれであらうと頼ませるのだらう。
三、かうして居れば、或はおいでになるかも知れぬと待つ夕ぐれに、君は誰が夕ぐれと頼ませるのであらう。
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即、二と三とは、殆ど同一である。寧
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