古歌新釈
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)等閑《ナホザリ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)やりくち[#「やりくち」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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自分は、かね/″\従来の文章の解釈法、殊に和歌に就いて、先達諸家のやりくち[#「やりくち」に傍点]に甚だ慊らぬふしが多い様に思うて居る。もと/\、解釈と訓詁とは主従の関係に立つもので、前者が全般的なるに対して、後者は部分的である。徹頭徹尾後者は部分的といふ絶対性をもつて居る。部分的なるものゝ全般的に拡充するには、数多の部分性の集合を要する。畢竟部分性は物の一面である。立体的事実を築き上げるには、必ず異平面の集合を要するので、望む所は、異種の部分性である。訓詁は、解釈の基礎をなす有力な材料の一つであるが、同時に解釈に到るには、尚他の部分性の綜合を要する訳である。更にいふと、解釈は、内容を説明するのであるが、訓詁は、内容を作る路の言語の説明、または言綴によつて約束せられた事実の説明以上に出るものではない。殊に韻なり律なりをもつて居る文章においては、通常の散文の上に尚附加せられた若干の部分性があるので、益々以て訓詁ばかりでは足らぬといふことがわかつて来るのである。こんなことは、誰しも考へてることで、事新しくいふのが、却てをかしなくらゐのものであるが、さて実際には、一向忘れられて居る姿である。訓詁は訓詁で何処までも止まず研究して、部分性を拡充してほしい。一部の人の様に、訓詁を等閑《ナホザリ》にするものとは訳が違ふのである。従来の訓詁一点ばりの説明でも、多少事が足つたのは、聴く人の観念聯合に俟つ所が多かつたのは勿論、一面には、また複雑な文章に逢着することの尠かつたのにもよらうし、又意味の徹底といふことを思はなかつた為でもあるといはなければならぬ。
最も完全な素質を備へた読者が、文章に対して得《ウ》るだけの内容を、出来るだけ適当に忠実に伝へるのが、解釈のねらふ点ではあるまいか。本居翁の古今集遠鏡の如きは、比較的内容を出さんとするに努められた痕が明かで、一読すれば、翁の頭脳の明確なのに驚くばかりであるが、まだ/\言語形式ばかりに囚へられて居た痕が見える。けれ
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