詞章の、国人の心をおびく美しさも、之にかゝつてゐることが多いと信じてゐる。自分で書く章段も、副詞表情を発揮することに費されて来た気がする。まして古代・中世の文学・非文学を通じて、文体の中心になつて居るものは、副詞句――副詞状・形容詞状の叙述語句をこめて――だと考へられて、久しくこの方面に注意だけはして来た。私よりも若い日本言語学者の誰かのさゝやかな出発点にでもなればよいと思ふのである。
うたた[#「うたた」に傍線]と言ふ語は、漢字「転」の訳語として、今も文語の上には、命の破片のやうなものを残してゐる。が、之をも一度近代訳することになると、骨の折れる語になつてしまつてゐる。新撰字鏡には載つてゐない。類聚名義抄には、カヒログ以下十四訓ほどの註がある。其中、マハス・カハル・ウツル・メグルなどは、今日我々の使用例と違はない。クルベクなどは、我々には遠くなつて居るが、器物や地理の名にあるから、なる程と思はれる。トコカヘリは輾転反側をさう訳したので、歴代の支那字典には出て来るのだから、之を容れてゐるのも、をかしくはない。アク・ヨム(転読の要約訓か)などは、何字書によつたものか、私などにはわからな
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