るところでは、彼等の行うた人形芝居は、宗教劇には関係がない様である。主として京太郎《チヨンダラ》と言ふ日本《ヤマト》の若衆をば、主人公にしたものである。沖縄では、此京太郎と言ふ人形と、其を舞はす人とを一つにして、考へてゐる形跡が、明らかである。京太郎とは、継母・継子で内地から流れて来た者だ、と言うて居るが、其には、一種の政治上の目的を持つて居た――薩摩が攻めて来る前に、沖縄の土地へ探索に来た――と考へて居る。行者村を、特殊部落扱ひにして居るのは、此国を売つた恨み・憎しみだとしてゐる。

     一二 念仏聖と人形舞はしと

京太郎《チヨンダラ》と言ふ戯曲は、元、内地のお伽仮名草紙にあつたものに相違ない。しらゝ[#「しらゝ」に傍線]・おちくぼ[#「おちくぼ」に傍線]・京太郎と並び称せられて居た位だから、いづれ、継母・継子の話だつたのだらう。継母・継子の話は、平安朝頃からあるが、男の子を苛める話は、鎌倉時代からゝしい。此話を、かなり早い時代――薩摩の琉球攻め以前――に、念仏聖《ネンブツヒジリ》の徒が、人形を舞はしながら、持つて行つた。それが人気を集めたので、後々までも、人形舞はしの事を京太郎、と言ふ様になつたのであらう。彼等が持つて居る歌を見ると、念仏系統の歌――寧、口説《クドキ》風の歌――が多い。外には、万歳の様なことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の歌、それから、万歳のくづれの様なものもある。どうしても、念仏聖の持つて行つたものと言ふことが考へられるのである。
念仏聖の事は言ひ尽し難いが、此から喜劇的のものが生れて来た事だけは考へてよい。壬生狂言の如き黙劇も、此から生れて居る。又、親友さへも認めてくれないで居るけれども、此が田楽に融合して居るのは事実が証明して居る。その外、木遣り・伊勢音頭の類を見ても、念仏の影響してゐる事は容易に考へられる。又、万作踊りを見ても、四竹《ヨツダケ》踊りを見ても、念仏の末流と言ふ事を考へないでは訣らないと思ふ。とにかく、近世の芸能の上に、どの位念仏が影響して居るかは、想像に能はない位である。沖縄の念仏者はたゞ人形芝居を持つて居るだけだから、此二つには関係がないとは言へまいと思ふ。此念仏者の歌を見ると、京太郎の外にも尚|継母《マヽウヤ》系統のものが若干ある。継母に苦しめられた、苦しい悲惨な子供の事を説いて、仏道に帰依させようとした形跡が十分考へられる。さうした人形の遣はれる箱が堂であり、宮である意味のてら[#「てら」に傍線]である。
私は、此事実から、我国に於ても、宮・寺の奴隷など、各種の宗教家が、各地に自分々々の宗教を宣伝して歩いたと同時に、小さな人形を箱の中に入れて踊らしたと言ふ事を考へて見る。問題は、箱の中から手を出したか、箱の中で踊らしたかである。書物の上では、箱の中から手を出して、其が発達した様に見えて居るけれども、此|行者《アンニヤ》の持つて居るものを見ても想像出来る様に、箱の中が、即宗教の世界であつたのだから、其中で踊らした、と言ふ事だつてなかつた、とは言はれまいと思ふ。昔の浄瑠璃説教の人形芝居でも、手摺《テスリ》を主として居るばかりではない。水ひき幕が其上にある。この水ひき幕と手摺《テスリ》との空間が、人形の世界で、即、箱の面影を止めたものなのであらう。水ひき幕の書いてないものもあるが、其は、本式ではない様である。
かうした人形遣ひが、国中を廻つて、宗教味の浅い、教訓味を持つた歌を歌ひながら、人形を舞はしたものらしい。何と言つても、文献だけでは、頼みにならない。我々が、民間伝承の採訪に努力する所以である。

     一三 おひら[#「おひら」に傍線]様と熊野神明の巫女

人形を神霊として運ぶ箱の話では、更にもう一つのものに就いて、述べて置きたい。恐らく本論文集では、皆さんの興味の中心になつて居ると思ふが、それは奥州のおしら[#「おしら」に傍線]神である。金田一京助先生の論文で拝見すると、おしら[#「おしら」に傍線]はおひら[#「おひら」に傍線]と言ふのが正しい。おしら[#「おしら」に傍線]と言ふのは、方言を其まゝ写したのだ、と説かれてゐる。この所謂おひら[#「おひら」に傍線]様は、いつ奥州へ行つたものか、此は恐らく、誰れにも断言の出来る事ではないと思ふが、少くとも、此だけの事は言へさうだ。元来、東国にかう言ふ形式のものがあつたか、其とも古い時代に、上方地方から行つた旧信仰が止まつたか、或は其二つの融合したものか、結局此だけに落ちつく様である。
私は、其考へのどれにでも、多少の返答を持つてゐる。先、誰にでも這入り易いと思ふ事から言うて見ると、おひら[#「おひら」に傍線]様と言ふ物は、熊野神明の巫女《ミコ》が持つて歩いた一種の、神体であつたらうと思ふ。熊野神明と言ふのは、伊勢皇大神宮でない、紀州に於ける一種の日の神である。即、宣伝者が、神明以外に、他の眷属を持つて歩いた。
的確な例は、浅草の三社権現である。三社とは、浅草観音の本地たる熊野神明に、其眷属とも言ふべき三つの神が附属した事で、日前《ヒノクマ》神宮と関係のある、三体の神だつたのである。其が後には、浅草観音を探り出した三人の兄弟と言ふ風に、説話化されたのである。
おひら[#「おひら」に傍線]様なるものも、熊野神明其ものではなく、神明の一つの眷属で、神明信仰を宣伝して歩く巫女に、直接関係を持つた精霊――神明側から言うて――であつたと思はれる。神明の外に、神明のつかはしめ[#「つかはしめ」に傍線]とも言ふべきものがあつた。それがおひら[#「おひら」に傍線]神であつたのだ。
おひら[#「おひら」に傍線]様と言ふ言葉については、古くから、私はひな[#「ひな」に傍線]の音韻変化だと考へて居た。たゞ、何故かうした桑の木でこしらへた人形にまで、ひな[#「ひな」に傍線]と言ふ名を負はせたか。その点になると、ひな[#「ひな」に傍線]の語原について、訣つて居ない我々には、説明のしようがない。併し、尠くとも、この人形には、足は勿論手もないが、其を巫女が遊ばせる――舞はせる――ことが、一つの条件であつたとだけは、考へる事が出来る。この点からならば、尠くも、一つの論が、進められない事もない。にこらい・ねふすきい[#「にこらい・ねふすきい」に傍線]氏が、磐城平で採集して来られたおひら[#「おひら」に傍線]様の祭文と称するものを見ると、此は或時代に、上方地方で、やゝ完全な形に成立した、簡単な戯曲が、人形の遊びの条件として行はれて居た事が察せられる。即、これはおひら[#「おひら」に傍線]様の前世の物語で、本地物語とも言ふべきものが、随伴して居つた訣である。

     一四 おひら[#「おひら」に傍線]様と大宮の※[#「口+羊」、第3水準1−15−1]祭りと

今日、おひら[#「おひら」に傍線]様の分布は、必しも東北ばかりでない。十数年以来採訪せられた材料から見ると、曾ては都方から東へ向けて、神明信仰に附随した伴神の信仰の、宣伝せられた跡が窺はれる。だが、おひら[#「おひら」に傍線]様が注意に上つた時代に於いては、既に巫女が箱に入れて歩く風習を失うて了うて居た。だから此を、人形芝居の旅興行の形に関聯して考へる事は、困難な事の様に見えるが、後世の様に、蚕の守り神と言ふ風に固定しない以前には、確かにさうした時期があつたのであらうと思ふ。
併し此は、又、逆に考へて見る事も出来なくはない。おひら[#「おひら」に傍線]様は、東国に根生《ネバ》えの種を持つて居たのではないかと言ふ事である。其には、宮廷の「大宮《オホミヤ》の※[#「口+羊」、第3水準1−15−1]祭《メマツ》り」が想像に上る。此は疑ひもなく、東国風をうつしたもので、思ふに常陸の笠間の社と関係が深いものらしい。
此祭りの中心になるのは、一つの華蓋《キヌガサ》である。此に様々な物を下げるが、其中心になるものは、男女の姿をした人形《ヒトガタ》であつた。華蓋《キヌガサ》は、祭りのすんだ後には、水に流されるものと思はれるが、此|人形《ヒトガタ》とおひら[#「おひら」に傍線]様、延いてはひな[#「ひな」に傍線]との間に、或関係がないであらうか。併し此とても、単に東国風とは限らず、どこでも、男女二体の人形《ヒトガタ》を作る習慣があつたので、只僅かに、大宮の※[#「口+羊」、第3水準1−15−1]祭りに著しく印象が残つて居た、と言ふに止まるのであるかも知れない。ひな[#「ひな」に傍線]の研究には、此材料の解剖が、大事だと思ふ。或は、かうした風が東国にあつて、後に西から上つて来た神明の人形舞はしと結びついた、と言ふ風な事も考へられぬではない。
更に、おひら[#「おひら」に傍線]様について考へて見たい事は、此は男女一対を、本体と見るべきか否かである。私の考へるところでは、女並びに馬の形をした男性の人形、此二つが揃うて、初めて完全たおひら[#「おひら」に傍線]様になるので、其が偶、一つだけ用ゐられると言ふやうな形も、出来たのだと思はれる。

     十五 おひら[#「おひら」に傍線]様の正体

今日、東北に残つて居るおひら[#「おひら」に傍線]様だけで見ると、必しも、夫婦である事を本体として居る、とは断言出来ない。けれども時には、男を、馬頭を戴いたもの、或は全体馬としたものに配するに、女体のものを以てして居る。そして此をおひら[#「おひら」に傍線]様の普通の形だ、と見て居る処もある。おひら[#「おひら」に傍線]様に関した由来を、其祭文によつて見ると、疑ひもなく、かうした一対のものを原則としたと見てよい。其二つを、祭文を語り乍ら遊ばせたのである。だから時としては、馬頭だけを離しても、又女体の方だけを離しても、おひら[#「おひら」に傍線]様と考へる事が出来たのである。図――博物館所蔵のもの――のおひら[#「おひら」に傍線]様の如きは、蚕神である馬頭がなくなつて、殆普通の立ちびな[#「びな」に傍線]の形に近づいて居る。これと、図の三河びな[#「びな」に傍線]・薩摩びな[#「びな」に傍線]をくらべて見ると、形に於ては、非常に変化がある様だが、後者は、けづりかけ[#「けづりかけ」に傍線]に紙或はきれ[#「きれ」に傍線]を以て掩うたものである事が、明らかであると同時に、前者との間にも、形式上通じた所のあるのが見える。此から考へると、此等のものは毎年、年中行事として、一度棄てたものに相違ない。さうして其が、毎年捨てられる代りに、新らしい布帛を掩ふ事によつて、元に戻つた事を示す形のおひら[#「おひら」に傍線]様が、出来たのではあるまいか。かうして、棄てられるおひら[#「おひら」に傍線]様以外に、神明巫女の手によつて、常に保存せられる強力なおひら[#「おひら」に傍線]様が、専らおひら[#「おひら」に傍線]様として信ぜられる様になつたと考へて見る事が出来る。このおひら[#「おひら」に傍線]様は、其巫女の信仰形式の変るに従つて、姿をあらためてくる事もあつたに相違ない。譬へば、熊野の巫女が、仏教式に傾いた場合には、遊ばすべき人形《ヒトガタ》の代りに、仏像を以てする様になつた事もあつた、と考へてよさゝうだ。図――武蔵国西多摩郡霞村字今井吉田兼吉氏所蔵のもの――に見えてゐるおしら[#「おしら」に傍線]様の如きは、馬と女体とを備へた仏像であるが故に、おひら[#「おひら」に傍線]様の要素を備へたものと見て、或部分の巫女の間に、信仰の行はれた事があつたのであらう。
[#「武蔵西多摩のおひら様 撮影・村上静文氏」のキャプション付きの写真(fig18396_01.png)入る]
[#「おひら様(帝室博物館蔵) 小田内通久氏写生」のキャプション付きの図(fig18396_02.png)入る]
[#「薩摩雛(帝室博物館蔵)」のキャプション付きの写真(fig18396_03.png)入る]
[#「三河雛(帝室博物館蔵)」のキャプション付きの写真(fig18396_04.png)入る]
私は、ひゝな[#「ひゝな」に傍線]の家と称するものは、或家のひな[#「
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング