偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乞食者詠《ホカヒビトノウタ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)筑前|志賀《シカ》[#(ノ)]島《シマ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]《ノゾ》かせる
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)西[#(ノ)]宮
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ムラ/\
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一 祝言の演劇化
万葉巻十六の「乞食者詠《ホカヒビトノウタ》」とある二首の長歌は、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の祝言《シウゲン》が、早く演劇化した証拠の、貴重な例と見られる。二首ながら、二つの生き物の、からだの癖《クセ》を述べたり、愁訴する様を歌うたりして居るが、其内容から見ても、又表題の四字から察しても、此歌には当然、身ぶりが伴うて居たと考へてよい。「詠」はうた[#「うた」に傍点]と訓《ヨ》み慣《ナ》れて来たが、正確な用字例は、舞人の自ら諷誦《フウシヨウ》する詞章である。
此歌は、鹿・蟹の述懐歌らしいものになつて居るが、元は農業の、害物駆除の呪言《ジユゴン》から出て居る。即、田畠を荒す精霊の代表として、鹿や蟹に、服従を誓はす形の呪言があり、鹿や蟹に扮した者の誓ふ、身ぶりや、覆奏詞《カヘリマヲシ》があつた。此副演出の部分が発達して、次第に、滑稽な詠、をこ[#「をこ」に傍点]な身ぶりに、人を絶倒させるやうな演芸が、成立するまでに、変つたのだと思ふ。
其身ぶりを、人がしたか、人形がしたかは訣らない。併し、呪言の副演出の本体は、人体であるが、もどき[#「もどき」に傍線]役に廻る者は、地方によつて、違うて居た。人間であつた事も勿論あるが、ある国・ある家の神事に出る精霊役は、人形である事もあり、又鏡・瓢《ヒサゴ》などを顔とした、仮りの偶人である事もあつた。此だけの事は、考へてよい根拠が十分にある。
ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]は、細かに糺して見ると、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]とおなじ者でない処も見える。併し、此ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の中に、沢山のくゞつ[#「くゞつ」に傍線]も交つて居た事は考へてよい。私は、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]・傀儡子《クワイライシ》同種説は、信ずる事が出来ないで居るが、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の名に宛て字せられた、傀儡子の生活と、何処までも、不思議に合うて居るのは、事実である。
くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民の女が、人形を舞はした事は、平安朝の中期に文献がある。其盛んに見えたのは、真に突如として、室町の頃からであるが、以前にも、所々方々に、下級の神人《ジンニン》や、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の手によつて行はれて居た。此団体が、摂津広田の西[#(ノ)]宮から起つた様に見えるのは、恐らく、新式であつた為、都人士に歓ばれたからであらう。
西[#(ノ)]宮一社について見れば、祭り毎に、海のあなたから来り臨む神の形代《カタシロ》としての人形《ニンギヤウ》に、神の身ぶりを演じさせて居たのが、うかれびと[#「うかれびと」に傍線]の祝言に使はれた為に、門芸《カドゲイ》としての第一歩を、演芸の方に踏み入れる事になつたのだと思はれる。
二 八幡神の伴神
祭礼に人形《ニンギヤウ》を持ち出す社は、今でも諸地方にある。殊に、八幡系統の神社に著しい。八幡神は、疑ひもなく、奈良朝に流行した新来《イマキ》の神である。私は、日本の仏教家の陰陽道《オンミヤウダウ》が、将来した神ではないかと考へて居る。譬へば、すさのをの[#「すさのをの」に傍線]命を、牛頭《ゴヅ》天王と言うたり、武塔《ブタフ》天神と言うたりする様に、八幡神も、多分に陰陽道式のものを持つて居る。仏教式に合理化せられ、習合せられた新来神と言へさうだ。
其はとにかく、此神が、兇暴な神である様に見られたのは、八幡神自身が、兇暴と言ふよりも、西から上つて来る途中、其土地々々の、兇悪な土地神を征服して、此を部下にして行つた、其為だと思はれる。此征服の結果は、最初は、部下にしたのだが、後には、若宮として、父子の関係で示される様になつた。
かうして八幡神の信仰が、宣伝せられて行く中に、地方々々の神々を含んで行つた。それ等の神々は、巨人の形をとつて、其土地の八幡神の信仰を受け持つことになつた。八幡神側から言へば、臣従を誓はせる事によつて――父子の形はとつても――土地の害悪を押へたのである。
此部下は、人形《ニンギヤウ》の形をとつた。巨人《オホヒト》の像で示されたのである。譬へば、日向岩川八幡の大人《オホビト》弥五郎の様なものが出来た。さうして、此が八幡神の行列には必、伴神として加はつた。日本の巨人《キヨジン》伝説には、此行列の印象から生れた、と考へられるものがある。証拠は段々とある。らしよなりずむ[#「らしよなりずむ」に傍線]に囚はれた人類学・考古学の連衆は、無反省に、先住民族を持ち出すが、尠くとも、日本の巨人伝説を考へるには、此行列の印象のある事を忘れてはならない。九州で大人弥五郎と言ひ、中国で大太郎法師と言ひ、平家物語にはだいたら[#「だいたら」に傍線]法師とある様に、此印象が、殆全国に亘つて、伝説化せられて居る。勿論其には、沼を作り、山を担いだなどゝある、一代前の巨人伝説が、結びついても居る。此二者が結合して、新しい巨人伝説が出来た、と見るのがよろしいであらう。大太郎法師を高良《カウラ》明神とし、高良明神を武内宿禰に仮托したのは、八幡神を、応神天皇に附会した為の誤解からである。それでも、脇座《ワキザ》の神としての印象だけは、採り入れて居る。
八幡神の伴神でも、まだ御子《ミコ》神としての考への出ない前のものが、即、才《サイ》の男《ヲ》である。伴神が二つに分れて、既に服従したものと、尚、服従の途中にあるものとに分れた。才の男に、からかひ[#「からかひ」に傍点]かける態のあるのは、あまのじやく[#「あまのじやく」に傍線]と称する伝説上の怪物・里神楽のひよつとこ[#「ひよつとこ」に傍線]などゝ同じやうに、尚服従の途中にある事を示して居るのである。巨人《オホビト》の方は、既に服従したものである。だから行列に於いて、前立となるのである。
三 才の男・細男・青農
才の男は、せいのう[#「せいのう」に傍線]とも発音したらしい。青農と書いたものがある。又、細男と書いて、せいのう[#「せいのう」に傍線]と訓ませても居る。共に、此場合は、多く人形《ニンギヤウ》の事の様であるが、才の男の方は、人である事もあつた。平安朝の文献に、宮廷の御神楽《ミカグラ》に、人長《ニンヂヤウ》の舞ひの後、酒一巡して、才の男の態がある、と次第書きがある。此は一種の猿楽で、滑稽な物まねであつたと思はれる。「態」とあるによつて、わざ[#「わざ」に傍線]・しぐさ[#「しぐさ」に傍線]を、身ぶりで演じた事が示されて居る。
この「態」の略字が「能」である。田楽能・猿楽能など言ふ、身ぶり狂言の能は、此から来た。併し、宮廷の御神楽に出る、才の男が人間であるのは、元偶人が演じた態を、人間がまねたのだと考へられる。一体、今日伝はる神楽歌は、石清水《イハシミヅ》系統のものである。此派の神楽では、才の男同時に青農で、人形に猿楽を演ぜしめたのであらう。だから才の男は、人形であるのが本態で、宮廷の御神楽に出る才の男が人間であるのは、其変化である、と見る考へはなり立つと思ふ。
神楽に出る才の男が、猿楽風に物まねをするのは、神の暗示を具体化する、副演出と見る事が出来る。此は元来、才の男が精霊役で、別に、此に対する神があり、神がして[#「して」に傍線]、才の男がわき[#「わき」に傍線]と言ふ風に、対立して演じた事から生じた、と解すればよい。併し、神・精霊の考へは、常に変化転換して居る。譬へば、宇佐八幡と関係の深い、筑前|志賀《シカ》[#(ノ)]島《シマ》の祭りに、人形を船に乗せて、沖に漕ぎ出で、船の上から、海底を※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]《ノゾ》かせる式がある。海の精霊を、祭りに参与せしめる為の、お迎へ人形であるから、元来は海底の神が精霊である訣だが、この場合には、お迎へ人形の方が、精霊の位置に変る。併し、更に考へて見ると、海底の精霊と言ふのが、実は、嘗ては、他界から来る権威ある神であつたのだ。又、さうした事は、逆にも行はれて居る。宇佐八幡に対すると、志賀[#(ノ)]島の海底神は、精霊の大なるもの、と言ふ事になるのである。
此から、阿度目《アドメ》[#(ノ)]磯良《イソラ》――後に人と考へる様になつて、磯良丸とも言ふ――を考へる様になつた。磯良は、海底を支配する海人の神だ、と言はれて居る。此名に関係のあるものでは、神楽歌に磯良前《イソラガサキ》がある。「いせじまやあまのとねらがたくほのけいそらがさきに云々」と言ふので、此歌だけで見ると、阿度目[#(ノ)]磯良と、別に関係はない様であるが、元はあつたに相違ない。
神楽の最初に「阿知女々々々於々々《アヂメアヂメオヽヽ》」とある阿知女作法と言ふのは、太平記が伝へる名高い伝説でも、想像が出来る様に、「阿知女々々々」は磯良を呼ぶので、「於々々」は磯良の返答である。或は、人長と才の男と言うた様な対立で、演じたものであつたかも知れない。とにかく、磯良の出現によつて、此儀式の始まつた元の記憶だけは、止めて居たと見られる。原意は、既に忘却を重ねた後にまでも、尚、此を繰り返して居たのである。阿知女を鈿女《うずめ》だとする説もあるが、阿知女・阿度女は、海人《アマ》の宰領である、安曇《アヅミ》氏の事でなければならない。磯良が、海底を支配する海人《アマ》の神だ、と言ふ伝説の意味も、それで訣る。
私の考へ方としては、海の神の信仰が山の神の信仰に移つたとするのであるから、譬ひ磯良の信仰には、更に、山の大人《オホビト》の考へをば、反映して居るとしても、根本的には、古いものと見られる。
四 くゞつ[#「くゞつ」に傍線]と人形との関係
民間信仰・民俗芸術の上の諸相は、単純化の容易に行はれるものではない。けれども、仮りに、簡単な形を考へて見るとしたら、才《サイ》の男《ヲ》は、海系統のもの、大人《オホビト》は山系統のものと見てよいであらう。でも、此二つは、元はやはり、一つ考へのものでなければならない。
この才の男の末が、二つに分れて、一つは、傀儡子の手に移つて、てくゞつ[#「てくゞつ」に傍線]から、次第々々に、木偶《デク》人形となつた。てくゞつ[#「てくゞつ」に傍線]人形の略語が、でく[#「でく」に傍線]人形となつたのであらう。今一流は、早く大人《オホビト》と融合して、大社々々の細男・青農となつた。
細男側の才の男は、離宮《リキウ》八幡のものゝ様に、手の動くものもあるが、多くは、単なる偶像となつて、形の上から見ると、恰も、一つもの[#「一つもの」に傍点]ゝ人形と同じ様に、祭りの行列の最初に練《ネ》つて行く。
一つもの[#「一つもの」に傍点]にも、人形と人間との二通りがある。従来の考へ方では、此は尸童《ヨリマシ》系統のものであるから、人間を本態とする事になつて居るが、併し、人形を以つてする形式も多い事だし、旁《かたがた》、どちらを先ともきめられない様である。
志賀《シカ》[#(ノ)]島《シマ》の祭りに、お迎へ人形の出ることは、海部《アマベ》の民と、八幡神の信仰とが結びついて居る、一つの記念と見られる。海部の民も、人形《ニンギヤウ》を重んじた。これが、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の人形舞はし・ゑびすかき[#「ゑびすかき」に傍線]にまで、続くのである。
くゞつ[#「くゞつ」に傍線]と人形との関係は、平安朝中期以後の材料と、
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