ま[#「あはしま」に傍線]様は、自分が婦人病の為に、不為合せを見られたので、不運な婦人達の為に、悲願を立てられ、婦人の病気治癒の神様になられた。江戸時代には、淡島|願人《グワンニン》と言ふ乞食房主が廻り歩いて、此信仰を宣伝し、婦人達から、衣類を奉納させたり、かもじ[#「かもじ」に傍線]其他の穢物《ケガレモノ》を集めて廻つたりした。諸方にある淡島堂は、この乞食房主の建立にかゝるものが尠くない。
淡島様で有名なのは、加太の外に、伯耆の粟島・九州平戸の粟島などがある。凡そ祭神は、すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]の命と言ふ事になつてゐる。特に伯耆の伝説では、此神が粟幹に弾かれて常世国《トコヨノクニ》から渡つて来られた事になつてゐる。国学者の中にも、粟島即、すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]説を離さぬ人があるが、恐らく、此二者の混合は、すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]が医薬の神であり、又、粟に弾かれて来た粟と言ふ関聯がある為であつたらう。すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]の外に、淡島神のあることは、記・紀を覗けば、容易に訣る。住吉明神の后同様、やはり海にながされてゐる。
つまり、日本の信仰には、流される神が幾らもある。其が漂著して、祀られる。更に遠い処から訪れて来る、小さな神がある。此は、少女の手で育てられ、後に其少女と、夫婦になる。うがやふきあへず[#「うがやふきあへず」に傍線]の命が、御姨玉依比売《オンヲバタマヨリヒメ》に育てられて、後夫婦になられたのも、其一例である。
淡島伝説は、此の一転化である。此には、上巳の祓除《ミソギハラヒ》の遺風が、底に流れて居る、と見られさうだ。上巳の節供《セツク》は、日本古来の行事と言ふよりも、寧、支那の信仰上で意味のある日であつた。古く、三月初めの巳の日に、水辺に出て祓除をなし、宴飲をした。其が形式化して、曲水《ゴクスヰ》の宴ともなつた。通常伝へる処では、魏《ギ》の後、上巳を止めて、三日を用ゐる様になつたが、名前は依然、上巳で通つたのだと言ふ。
同じ例は、端午の節供に見出される。端午は、端《ハジ》めの午である。此儀礼が、古く支那の帰化人によつて、輸入せられた。彼等の帰化は、個人々々の帰化でなく、一村全部と言ふ風の、団体帰化であつた場合が多かつたのであるから、その故土の風俗・習慣・信仰を、憚る処なく行ひ信じたと思はれる。当時にも、はいから[#「はいから」に傍線]嗜《ズ》きの民衆は多かつた。此をまねない筈はないのである。

     九 少女のものいみ[#「ものいみ」に傍線]

勿論日本にも、三月三日に、女が家を離れてものいみ[#「ものいみ」に傍線]の生活をする信仰が、古くからあつた。五月五日は、男が家を出はらつて、女ばかりが家に居た。名古屋附近では、現在でも、五月四日の夜から五日へかけてを、女天下と言ふ。近松の「女殺油地獄」中巻に「五月五日の一夜さを、女の家と言ふぞかし」とあるのも、其を言うたのである。とにかく、三月三日は女が野山に籠つて、女ばかりの生活をした。女が神事に仕へる資格を作る為のものいみ[#「ものいみ」に傍線]で、此ものいみ[#「ものいみ」に傍線]が了ると、女は聖なる資格を得て、戻つて来る。此資格は、祭りの終るまで続く。即、村共有の巫女となつて、宗教上の実権を握るのである。
女のものいみ[#「ものいみ」に傍線]は、此外にも幾度かある。長期のものいみ[#「ものいみ」に傍線]は、さをとめ[#「さをとめ」に傍線]の資格を得る為の其である。其外には、卯月八日にもある。七夕にもあつて、此が後に、盂蘭盆に続いて、盆がま[#「がま」に傍線]と称するものになつた。少女達が、弁当を持つて集る遊楽にまで、変転をしたのであるが、其でも、此が別屋に於けるものいみ[#「ものいみ」に傍線]の遺風である事は、盆がま[#「がま」に傍線]の名称からも、容易に想像出来る。次は八月の一日で、江戸時代になつても、吉原の遊女は、八朔《ハツサク》の衣《コロモ》がへと言うて、白衣《シロムク》を着た。古いものいみ[#「ものいみ」に傍線]生活の遺風が、こんな形となつて残つたのである。此外には、九月九日もさうであつた。
要するに、此等のものいみ[#「ものいみ」に傍線]は、何れも少女が、神を接待する為の、聖なる資格を得る為で、三月の雛祭りは、此接待する神の形代《カタシロ》を姑く家に止める風習から出た、と見るのが一等近い様だ。さうして、其前提としての野山に籠《コモ》るものいみ[#「ものいみ」に傍線]生活の方は、げんげ[#「げんげ」に傍線]・よめな[#「よめな」に傍線]などを摘んで遊ぶ、野遊びとなつたのである。
相州|敦木《アツキ》――今の厚木――では、三月三日に、少女達が古い雛を河原に持ち出して、白酒で離杯を汲みかはし、別れを惜しみ、泣く様なぞをして、二体づゝさんだはら[#「さんだはら」に傍線]にのせて、河に流す風習が、江戸時代まであつた。更に上総の東金《トウガネ》では、今でも、此日を野遊びの日と言うて、少女達は岡に登り、川に向つて「来年もまたござらつしやれ、おなごり惜しや/\」と繰り返す。
蕪村の句に「箱を出る顔わすれめや雛二対」と言ふのがある。雛二対の意味は訣りかねるが、とにかく、此句は、雛が半永久的のものになつて、箱を出る顔に印象のあることが言はれてゐる。併し、前の二つの例を見ても訣るやうに、以前は、祭りがすむと、此を水に流した。更に古い処では、たゞ「おなごり惜しや」とだけを言うた。ものいみ[#「ものいみ」に傍線]をして、聖なる少女の資格で接待した神を、祭りの後に送るのである。此が雛の節供の古い形であつた様だ。

     一〇 神送りと祓除との結合

茲で、一体ひな[#「ひな」に傍線]とは何かを考へて見たい。都《ミヤコ》では、既に平安朝の中期に此が人形《ニンギヤウ》になつて居た文献がある。紫式部日記・枕草紙などで見ると、ひゝな[#「ひゝな」に傍線]はお館《ヤカタ》を作つて祭つた事が記されて居る。ひゝな[#「ひゝな」に傍線]のやかた[#「やかた」に傍線]と言うたのは後で、以前はひゝな[#「ひゝな」に傍線]の家と言うたらしい。
ひな[#「ひな」に傍線]の語原については、まだはつきりしたものを掴んで居ないが、此だけのことは言へさうだ。ひゝな[#「ひゝな」に傍線]と言うたのは、長音符を発明しなかつた時代に、長音を表すのに同音を重ねた――帚ははゝき[#「はゝき」に傍線]・蕗をふゝき[#「ふゝき」に傍線]と言うた様に――のではなかつたか。ひな[#「ひな」に傍線]はひな型[#「ひな型」に傍点]の意で、一家・主人の生活のひな型[#「ひな型」に傍点]ではなかつたらうか。
そして此を河に流したのは、上巳が祓除《ミソギハラヒ》の日であつた事に結びついたのだと思ふ。即、一家のひな型[#「ひな型」に傍点]を作つて、其に穢れを背負はして流す、と考へたのである。尚其には、神を送ると言ふ思想も混合した。つまり、穢れを流すと言ふ事と、神を送ると言ふ事とが、くつゝいたのである。
従来の学者の説明では、此穢れを移して、水に流すはずの紙人形が流されないで、子供・女の玩《モチアソ》び物になつたのが雛祭りの雛だ、と言ふことになつて居る。穢れを移す人形とは、撫《ナ》でもの・形代《カタシロ》・天児《アマガツ》などの名によつて呼ばれるものである。此は、別のものに代理させる、と言ふ考へから出て居る。或は、道教の影響が這入つて居るとも思はれる。
日本には、かなり古くから、天児《アマガツ》・お伽這子《トギバウコ》の類を身近く据ゑて、穢禍を吸ひ取らせる、と言ふ考へはあつた様だ。人形を恐れる地方は、現在もある。畏敬と触穢を怖れる両方の感情が、尚残つて居るのだと思ふ。だから此が、玩び物になるまでには、相当の年代を経た事も考へられる。恐らく、人形を玩ぶ風の出来た原因には、此座右・床頭の偶像から、糸口がついたとだけは言へさうだ。が、此が人形の起原であり、雛祭りも其から起つたなどゝは、まだ見られさうにない。
要するに、三月・五月の人形は、流して神送りする神の形代を姑く祀つたのが、人形の考へと入り替つて来た、と見るのがよい。五節供は、皆季節の替り目に乗じて人を犯す悪気のあるのを避ける為のもので、元は支那の民間伝承であつたと共に、同じ思想は、日本にもあつた。この季節に、少女が神を迎へる資格を得る為のものいみ[#「ものいみ」に傍線]生活をする風習のあつた事は前に述べたが、重陽を後の雛と言ひ、七夕にも、此を祀る地方がある事、又、今も北九州に行はれる、八朔の姫御前《ヒメゴジヨ》などから考へれば、此季節に、やはり神を迎へ、神送りをした風習のあつた事は、いよ/\確かだと言へる。
神を迎へるのと、祓除をするのとは、形は違ふけれども、悪気を避ける為と言ふ事では、一つであつた。つまり、迎へた神を送る為の、神の形代流しと、祓除の穢禍を背負うた形代流しとが、結びついて出来たのが、雛祭りである。さうして、一家の模型を意味したひゝな[#「ひゝな」に傍線]の家を作つて、それに穢れを移して流したのが、古い形であつたのだが、いつかこの雛に、金をかける様になつて、流さぬ様になつたのだと思ふ。先、此だけの順序を考へて置く。

     一一 箱の中の人形

雛祭りに関聯して、是非考へて置きたいものは、ちぎびつ[#「ちぎびつ」に傍線]である。今でも雛壇には、此が持ち出されるが、昔は、此に雛祭りの調理を詰めて、育てゝくれた乳母などへ、くばりものをした。何故此が、雛祭りに持ち出されるのか、其には理由があると思ふ。
一つの想像は、此ちぎびつ[#「ちぎびつ」に傍線]と、雛の正体との関係で、其はよほど、密接だつたらうと言ふ事である。私をして言はしめれば、ひな[#「ひな」に傍線]は、ちぎびつ[#「ちぎびつ」に傍線]からは離す事の出来なかつたものである。雛祭りには、此が出なければならなかつたのである。元来は、ちぎびつ[#「ちぎびつ」に傍線]の中にひな[#「ひな」に傍線]が入れられて居たのだ、と考へてよい。其には、段々証拠がある。譬へば、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の道具を見ても訣る。
或器物の中に、神霊が入れられてあつて、呪術の必要から、其がとり出される。かう言ふ事は、何事にも類例はあると思ふ。此霊物は、出さないで神力あるものと、取り出して、神秘な動作をする事によつて、其が現れるものと、二様に見られる訣だが、或旅行用具、或は其が変つて来た神聖な箱の中に、神霊を入れた例は、幾つかある。此の更に進化したものが、傀儡子の胸にかけた箱である。要するに、海の神人の持つたくゞつ[#「くゞつ」に傍線]・山の神人の持つたほかゐ[#「ほかゐ」に傍線]なども、同じ性質のものと見られる。
沖縄本島首里の石嶺に、行者《アンニヤ》村と言ふ部落があつて、其所に念仏者《ニンブチヤ》と称する者が居るが、此家には、内地の後世の人形遣ひ・傀儡子の歴史を考へる上に、非常に暗示を含んだ遺物を存して居る。大正十年に、私が此村を訪ねた翌年、宮良当壮君が、又訪ねた。此話は、炉辺叢書に譲つていゝ程、詳しい記録をとつて来てくれた。たゞ私が、初めて此部落を、訪れた時の実感を申すと、沖縄には、石嶺の外にも、地方に分散してゐる念仏者があつた様だが、此村の念仏者は、毎年春になると、沖縄中を廻つたものらしい。彼等は、前面の開いた箱を首にかけて、其中で、小さな人形を踊らせる。注意すべき事は、其箱をば、てら[#「てら」に傍線]と言うてゐる。沖縄では、普通日本の神をかんげん[#「かんげん」に傍線]として祀つた社の外は、ほこら[#「ほこら」に傍線]・祀堂に通じて、すべて、てら[#「てら」に傍線]と称して居るので、行者村の入り口にある阿弥陀堂を、やはりてら[#「てら」に傍線]と称して居る。だから、行者の首にかけてゐる箱は、つまり社であり、堂である訣だ。其中で、人形を踊らせるのだから、此には芸能以上の意味を以つて、考へられたものがあつた、と見なければならない。
併し、我々に訣つてゐ
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