略字が「能」である。田楽能・猿楽能など言ふ、身ぶり狂言の能は、此から来た。併し、宮廷の御神楽に出る、才の男が人間であるのは、元偶人が演じた態を、人間がまねたのだと考へられる。一体、今日伝はる神楽歌は、石清水《イハシミヅ》系統のものである。此派の神楽では、才の男同時に青農で、人形に猿楽を演ぜしめたのであらう。だから才の男は、人形であるのが本態で、宮廷の御神楽に出る才の男が人間であるのは、其変化である、と見る考へはなり立つと思ふ。
神楽に出る才の男が、猿楽風に物まねをするのは、神の暗示を具体化する、副演出と見る事が出来る。此は元来、才の男が精霊役で、別に、此に対する神があり、神がして[#「して」に傍線]、才の男がわき[#「わき」に傍線]と言ふ風に、対立して演じた事から生じた、と解すればよい。併し、神・精霊の考へは、常に変化転換して居る。譬へば、宇佐八幡と関係の深い、筑前|志賀《シカ》[#(ノ)]島《シマ》の祭りに、人形を船に乗せて、沖に漕ぎ出で、船の上から、海底を※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]《ノゾ》かせる式がある。海の精霊を、祭りに参与せしめる為の、お
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