遥かに時代の離れた戦国以後の材料とをつき合せて、其間の連絡をつけるより為方がないほど、中間が空白になつて居る。だが、旧来の考への様に、人形芝居は、西の宮・淡路の芸能人によつて始まつた、などゝは言へない事である。其間のつなぎには、百太夫――漢文式に表現して百神とも――と称するものが実在する。
此民の持つて歩いた人形と言ふのは、恐らく、もと小さなものであつて、旅行用具の中に納めて、携帯する事が出来たのだと思ふ。さうした霊物を入れる神聖な容器が、所謂、莎草《クヾ》で編んだくゞつこ[#「くゞつこ」に傍線]であつたのだらう。さう考へて見ると、此言葉の語原にも、見当がつく。くゞつ[#「くゞつ」に傍線]は、くゞつこ[#「くゞつこ」に傍線]・くゞつと[#「くゞつと」に傍線]の語尾脱略ではないだらうか。恰も、山の神人の後と考へてよいほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の持つ行器が、神聖なほかゐ[#「ほかゐ」に傍線]である様に、海の神人の持つ神聖な袋が、くゞつこ[#「くゞつこ」に傍線]であり、其に納まるものが、霊なるくゞつ[#「くゞつ」に傍線]人形《ヒトガタ》であつたのだらう。でく[#「でく」に傍線]、或はでこ[#「でこ」に傍線]の元の形であるてくゞつ[#「てくゞつ」に傍線]人形《ニンギヤウ》は、手をもて遣ふ義か、それとも、手のある人形の義であつたか、此は日本の人形史を研究する上では、注意すべき大切な事だと思ふ。いはゞ、一つ事ではあるけれども。

     五 淡路・西の宮と人形との関係

淡路島と人形との関係は、次の様に考へて見たい。淡路島に、西の宮の神人《ジンニン》が居つて、其が、西の宮の祭礼に参加する事、恰も古代の邑々《ムラ/\》に於て、海岸から離れた洋上に、神の島があり、其所から、神の来り臨むやうであつたのだと思ふ。そして、人が神となつて来る代りに、人形なる神、及び其を遣ふ人が出て来たのであらう。此長い習慣が、遂に、遥か後世に至つて、西の宮・淡路に亘る、偶人劇団を作ることになつたのであらう。又、かうした事実が、一方には、早くから淀川・神崎川の下流に、半定住してゐたくゞつ[#「くゞつ」に傍線]の間にも行はれて、西の宮対西摂地方のかいま[#「かいま」に傍線]女の偶人呪術を生みもしたのだと思ふ。
狂言小唄に、「遥かの沖にも石のあるもの夷の御前《ゴゼ》の腰かけの石――夷様の腰掛けの石が
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