、ある時はふえありい[#「ふえありい」に傍線]の様な、群衆して悪戯をする。或は、海の神の分霊が、水のある処に居るものとして、無数の河童を考へたのかも知れない。近代の河童から見れば、さう説かねばならぬ様である。でも私は、別の考へを持つてゐる。
河童を通して見ると、わが国の水の神の概念は、古くから乱れてゐた。遠い海から来る善神であるのか、土地の精霊なのか、区劃が甚朧げである。神と、其に反抗する精霊とは、明らかに分れてゐる。にも拘らず、神の所作を精霊の上に移し、精霊であつたものを、何時の間にか、神として扱うてゐる。河童なども、元、神であつたのに、精霊として村々の民を苦しめるだけの者になつた。精霊ながら神の要素を落しきらず、農民の媚び仕へる者には、幸福を与へる力を持つてゐると言つた、過渡期の姿をも残してゐる地方もある。
河童の皿は、富みの貯蔵所であると言ふ考への上に、生命力の匿し場の信仰を加へてゐる様である。水を盛る為の皿ではなく、皿の信仰のあつた処へ、水を司る力の源としての水を盛る様になつて来たのである。だから、生命力の匿し場の信仰は、二重になる。だから私は、皿の水は後に加つたもので、皿の方
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