正を保って居ながら、ある点に達すると手を抜く、と言う様な手法を発見した様である。よい計画だと思うが、私の疑念を抱く所は、初期新傾向の俳句の流行句法であった「……しが」と言う近頃はじめた表現法は、万葉の「……しかば」を逆に行った様でもあり、又堅固な言語情調を喜び過ぎて居る様にも感ぜられる。ともかくも、この手を抜く手法から来る散文に近い印象を、或は一種の兆しと誤認して居るのではあるまいか、と案じている。茂吉風・文明風が、今後「アララギ」の上で、著しい違い目を見せて来るであろうと思う。こうして懐しい万葉ぶりの歌風は過ぎ去って、竟《つい》におさまるべき処におさまる事になるのであろう。そうして、万葉調に追随して来た人々は、又更に新しい調子の跡を追おうとして居る。
この以外にも、「日光」その他について述べたいが、今は流行の歌風について論じるのであるから、まだその中心たる地位を保って居る「アララギ」ばかりを、めど[#「めど」に傍点]に据えたのである。思えば世間は、おおよそは旗ふる人の手さばきのままである。歌の上に於て、我々を喜ばした文芸復興は、これで姑《しば》らくは、中入りになるのであろう。
歌人の享楽学問
この様に考えて来ると、信頼出来る様に見えた古人の気魄《きはく》再現の努力も、一般の歌人には、不易性を具《そな》えぬ流行として過ぎ去りそうである。年少不良の徒の歌に、私は屡《しばしば》、飛びあがる様に新しくて、強い気息を聴いて、密《ひそ》かに羨《うらや》み喜んだ事も、挙げよとなら若干の例を示す事が出来る。不良のともがらも、其生命を寓《ぐう》するに適した強い拍子に値うて、胸を張っていたのだ。其程感に堪えた万葉風の過ぎ去るのは、返す返すも惜しまれる。歌壇に遊ぶこうした年少不良で、享楽党の人々は、万葉ぶりに依ってこそ、正しい表現法を見出すことが出来たのだ。其が今後、段々気魄の薄い歌風の行われようとする時勢に、どう言う歩みをとることであろう。
私の今一つ思案にあぐねて居るのは、歌人の間における学問ばやりの傾向である。此は一見|頗《すこぶる》結構な事に似て、実は困った話なのである。文学の絶えざる源泉は古典である。だからどんな方法ででも、古典に近づく事は、文学者としてはわるい態度ではない。けれども、其も、断片知識の衒燿《ひけらかし》や、随筆的な気位の高い発表ばかりが多いのでは困る。唯の閑人《ひまじん》の為事《しごと》なら、どうでもよい。文学に携る人々がこれでは、其作物が固定する。白状すれば、私なども僭越《せんえつ》ながら其発頭人の一人である。作物の上に長く煩いした学問の囚《とらわ》れから、やや逃げ道を見出したと思って、私のほっと息つく時に、若い人々の此態度を見るのである。けれども、此方面に於ける私の責任などは、極々軽微なものである。がら[#「がら」に傍点]が大きいだけに影響も大きかった茂吉の負担すべきものは、実に重い。童馬漫語類の与えた影響は、よい様で居て極めてわるいものである。でも其はなぞる[#「なぞる」に傍点]者がわるいので、茂吉のせいでは、ほんとうの処はないのである。
私は、気鋭の若人どもの間に行き渉《わた》って居る一種の固定した気持ち、語を換えて言えば、宗匠風な態度に、ぞっとさせられる。こうした人々の試みる短歌の批評が、分解批評や、統一のない啓蒙《けいもう》知識の誇示以上に出ないのは、尤《もっとも》である。私はそんな中から、可なりほんきな正しい態度の批評を、近頃聴くことが出来て、久しぶりの喜びを感じた位である。寧《むしろ》、素朴な意味の芸術批評でも試みればよい。其感銘を、認識不熟のままに分解した上に、学問の見てくれ[#「見てくれ」に傍点]が伴うからいけないのだ。私は、此等の人々に、ある期間先輩の作風をなぞった後、早く個性の方角を発見して、若きが故の賚《たまもの》なる鮮やかな感覚を自由に迸《ほとばし》らそう、となぜ努めないのか、と言いたい。併し、此は無理かも知れない。短歌の天寿は早、涅槃《ねはん》をそこに控えて居る。私は又、此等の人々から、印象批評でもよい、どうぞ分解しないで、其まま聞かして貰いたいと思う。何にしても、あまりに享楽者が多い。短詩国の日本に特有の、こうした「読者のない文学」と言った、状態から脱せない間は、清く厳かに澄みきった人々の気息までも、寝ぐさい息吹きが濁し勝ちなのである。
短歌の宿命
何物も、生れ落ちると同時に、「ことほぎ」を浴びると共に、「のろい」を負って来ないものはない。短歌は、ほぼ飛鳥《あすか》朝の末に発生した。其が完成せられたのは、藤原の都の事と思われる。一体、日本の歌謡は、出発点は享楽者の手からではなかった。呪言《じゅごん》・片哥《かたうた》・叙事詩の三系統の神言が、専門家の口頭に伝承せられていたのが、国家以前からの状態である。其が各、寿詞《よごと》・歌垣の唱和《かけあい》・新叙事詩などを分化した。かけあい[#「かけあい」に傍点]歌が、乞食者《ほかいびと》の新叙事詩の影響をとり入れて行く中に、しろうとの口にも、類型風の発想がくり返される事になった。そうして其が民謡を生み、抒情詩と醇化《じゅんか》して行った。而も日本の古代文章の発想法は、囑目《しょくもく》する物を羅列して語をつけて行く中に、思想に中心が出来て来るといった風のものであった為、外界の事象と内界とが、常に交渉して居た。其結果として、序歌が出来、枕詞《まくらことば》が出来た。交渉の緊密なものは、象徴的な修辞法になった場合もある。一方|外物託言《がいぶつたくげん》が叙景詩を分化したのであるが、こうした関係から、短歌には叙景・抒情の融合した姿が栄えた。万葉集は固《もと》より、以後益|隆《さか》んになって、短歌に於ける理想的な形さえ考えられる様になった。(日本に於ける叙景詩の発生は、雑誌「太陽」七月臨時増刊号に書いたから、ここには輪郭だけに止める――全集第一巻――。)
ところが一方、古く、片哥と旋頭歌《せどうか》を標準の形とした歌垣の唱和が、一変して短歌を尊ぶ様になって、ここに短歌は様式が定まったのである。だから発生的に、性欲恋愛の気分を離れることが出来ない。奈良朝になっても、そうした意味の贈答を主として居た為、兄妹・姉妹・姑姪《おばおい》の相聞往来にも、恋愛気分の豊かなものを含めた短歌が用いられている。其引き続きとして、平安朝の始めに、律文学の基本形式として用いられる様になり、民謡から段々遠くなって来ても、やはり恋愛気分は持ち続けられた。そう言う長い歴史が、短歌を宿命的に抒情詩とした。だから、抒情詩として作られたものでなくとも、抒情気分を脱却することが出来ないのである。此例からも叙景・抒情融合の姿の説明はつく。性霊を写すと言う処まで進んだ「アララギ」の写生説も、此短歌の本質的な主観|纏綿《てんめん》の事情に基くところが多いのである。
短歌と近代詩と
短歌は、万葉を見ても、奈良の盛期の大伴旅人・山上憶良あたりにも、既に古典としての待遇を受けている。旅人の子家持の作物になると、一層古典復活の趣きが著しく見える。其点からも、短歌に於ける抒情分子の存在が、必須条件となって居た理由を考えることが出来る。古典としての短歌は、恋愛気分が約束として含まれていなければならなかったのである。
こう言う本質を持った短歌は、叙事詩としては、極めて不都合な条件を具えて居る訣《わけ》だ。抒情に帰せなければならない短歌を、叙事詩に展開さしょうと試みて、私は非常に醜い作物を作り作りした。そうしてとどのつまり、短歌の宿命に思い臻《いた》った。私は自分のあきらめを以て、人にも強いるのではない。石川啄木の改革も叙事の側に進んだのは、悉《ことごと》く失敗しているのである。唯啄木のことは、自然主義の唱えた「平凡」に注意を蒐《あつ》めた点にある。彼は平凡として見逃され勝ちの心の微動を捉えて、抒情詩の上に一領域を拓《ひら》いたのであった。併し其も窮極境になれば、万葉人にも、平安歌人にも既に一致するものがあったのである。唯、新様式の生活をとり入れたものに、稍《やや》新鮮味が見えるばかりだ。そうして、全体としての気分に統一が失われている。此才人も、短歌の本質を出ることは出来なかったのである。
古典なるが故に、稍変造せねば、新時代の生活はとり容れ難く、宿命的に纏綿《てんめん》している抒情の匂いの為に、叙事詩となることが出来ない。これでは短歌の寿命も知れて居る。戯曲への歩みよりが、恐らく近代の詩の本筋であろう。叙事詩は当来の詩の本流となるべきものである。此点に持つ短所の、長所として現れている短歌が、果して真の意味の生命を持ち続けるであろうか。抒情詩である短歌の今一つの欠陥は、理論を含む事が出来ない事だ。三井甲之は、既に久しく之を試みて、いまだに此点では、為出《しで》かさないで居る。詩歌として概念を嫌わないものはないが、短歌は、亦病的な程である。概念的叙述のみか、概念をとりこんでも、歌の微妙な脈絡はこわれ勝ちなのである。近代生活も、短歌としての匂いに燻《いぶ》して後、はじめて完全にとりこまれ、理論の絶対に避けられねばならぬ詩形が、更に幾許《いくばく》の生命をつぐ事が出来よう。
口語歌と自由小曲と
青山霞村・鳴海うらはる其他の歌人の長い努力を、私は決して同情と、感謝なくは眺めて居ない。併し其が、唯の同時代人としての好しみからに過ぎない程、此側の人々の努力は、詩の神から酬《むく》いられるに値して居ない様である。私のこれまでの評論を読んで下さった人々には、自ら口語歌の試みが、恐らく何時までも試み以上に一歩も進めまい、と言う事に納得がいく事と思う。短歌の本質に逆行した、単に形式が57577の三十一字詩形である、と言う点ばかりの一致を持っただけの口語歌が、これ程すき嫌いの激しい詩形の中に、割りこもうとしているのは、おか目の私共にとっては、あまりに前の見え透いた寂しい努力だと思われる。
短歌が古典であると言う点から出て来る、尚一つの論理は、口語歌の存在を論理的基礎のないものにして了うであろう。其は、口語の音脚並びに其の統合律が、57を基本とする短歌とは調和しなくなっていることだ。どどいつ[#「どどいつ」に傍点]の様な芸謡の形式が、何の為に派生したのであろうか。文学上の形式として固定のまま守られて来た短歌も、若《も》し民謡として真に口語律の推移に任せて置いたとしたら、同系統の単詩形なる琉歌《りゅうか》同様の形になってしまって居たであろう。
友人伊波普猷氏は、「おもろ双紙」の中に、短歌様式から琉歌様式に展開した痕《あと》を示すものの見えることを教えてくれた。どどいつ[#「どどいつ」に傍点]の古い形とも見るべき江戸初期のなげぶし[#「なげぶし」に傍点]や室町時代の閑吟集の小唄類を見ても、口語律の変化が、歌謡の様式を推移させて行く模様が知れる。言語を基礎とする詩歌が、言語・文章の根本的の制約なる韻律を無視してよい訣《わけ》はない。
口語歌は、一つの刺戟《しげき》である。けれども、永遠に一つの様式として、存在の価値を主張することは出来ない。私は、口語歌の進むべき道は、もっと外に在ると思う。自由な音律に任せて、小曲の形を採るのがほんとうだと思う。而も短歌の形を基準としておいて、自由に流れる拍子を把握するのが、肝腎《かんじん》だと考える。将来の小曲が、短歌に則《のっと》るべきだと言うのは、琉歌・なげぶし[#「なげぶし」に傍点]等の形から見ても見当がつく。日本の歌謡は、古代には、偶数句並列であったものが、飛鳥・藤原に於て、奇数句の排列となり、其が又平安朝に入って、段々偶数句並列になって、後世に及んだ。私は民謡として口誦《こうしょう》せられた短歌形式は、終に二句並列の四行詩になったのだと思う。それで試みに、音数も短歌に近く、唯自由を旨とした四行詩を作って見た。そうしてそこに、短歌の行くべき道があるのを見出した様に考えている。
石原純は、更に開放的に、一行の語数の極めて不同な句の、四句・五句
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