歌の円寂する時
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)竟《つひ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)所謂|鍛煉道《たんれんどう》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)太※[#「虍/丘」、第3水準1−91−45]集

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)手持[#(ノ)]女王
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われさへや 竟《つひ》に来ざらむ。とし月のいやさかりゆく おくつきどころ
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ことしは寂しい春であった。目のせいか、桜の花が殊に潤《うる》んで見えた。ひき続いては出遅れた若葉が長い事かじけ色をしていた。畏友《いゆう》島木赤彦を、湖に臨む山墓に葬ったのは、そうした木々に掩《おお》われた山際の空の、あかるく澄んだ日である。私は、それから「下《しも》の諏訪」へ下る途《みち》すがら、ふさぎの虫のかかって来るのを、却《しりぞ》けかねて居た。一段落だ。はなやかであった万葉復興の時勢が、ここに来て向きを換えるのではないか。赤彦の死は、次の気運の促しになるのではあるまいか。いや寧《むしろ》、それの暗示の、寂《しず》かな姿を示したものと見るべきなのだろう。
私は歩きながら、瞬間歌の行きついた涅槃那《ねはんな》の姿を見た。永い未来を、遥かに予《か》ねて言おうとするのは、知れきった必滅を説く事である。唯近い将来に、歌がどうなって行こうとして居るか、其が言うて見たい。まず歌壇の人たちの中で、憚《はばか》りなく言うてよいことは、歌はこの上伸びようがないと言うことである。更に、も少し臆面ない私見を申し上げれば、歌は既に滅びかけて居ると言う事である。

   批評のない歌壇

歌を望みない方へ誘う力は、私だけの考えでも、尠《すくな》くとも三つはある。一つは、歌の享《う》けた命数に限りがあること。二つには、歌よみ――私自身も恥しながら其一人であり、こうした考えを有力に導いた反省の対象でもある――が、人間の出来て居な過ぎる点。三つには、真の意味の批評の一向出て来ないことである。まず三番目の理由から、話の小口《こぐち》をほぐしてゆく。
歌壇に唯今、専ら行われて居る、あの分解的な微に入り、細に入り、作者の内的な動揺を洞察――時としては邪推さえしてまで、丁寧心切を極めて居る批評は、批評と認めないのかといきまく人があろう。私は誠意から申しあげる。「そうです。そんな批評はおよしなさい。宗匠の添刪《てんさん》の態度から幾らも進まないそんな処に※[#「彳+詆のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》して、寂しいではありませんか。勿論私も、さびしくて為方がないのです。」居たけ高な[#「居たけ高な」に傍点]と思われれば恥しいが、此だけは私に言う権利がある。実はああした最初の流行の俑《よう》を作ったのは、私自身であったのである、と言う自覚がどうしても、今一度正しい批評を発生させねば申し訣《わけ》のない気にならせるのである。海上胤平翁《うなかみたねひらおう》のした論難の態度が、はじめて「アララギ」に、私の書いた物を載せて貰う様になった時分の、いきんだ、思いあがった心持ちの上に、極めて適当に現れて居たことを、今になって反省する。歌は感傷家程度で挫折《ざせつ》したが、批評の方ではさすがと思わせた故中山雅吉君が、当時唯一人、私の態度の誤りを指摘して居る。なんの、そんな事言うのが、既に概念論だ。これほど、実証的なやり口があるものか、と其頃もっとわからずや[#「わからずや」に傍点]であった私は、かまわず、そうした啓蒙《けいもう》批評をいい気になって続けて居た。今世間に行われて居る批評の径路を考えて見ると、申し訣ないが、私のやった行きなり次第の分解批評が、大分煩いして居るのに思い臻《いた》って、冷汗を覚える。此が歌壇の進歩の助勢になった事だったら、どんなに自慢の出来る事かと思うと残念だ。其私自身が言うのだから、尠くとも、此方面に関してだけは、間違いは言わない筈である。
難後拾遺集・難千載集以後歌集の論評は、既に師範家意識が出て居て、対踵地《たいしょうち》に在る作者や、団体に向けての排斥運動だったのである。私にも、そうした師範家に似た気持ちが、全然なかったとは言えないのが恥しい。その如何にも批評らしい批評がいけないとすれば、どんな態度を採るのが正しいのであろう。
批評の本義を述べ立てるのは、ことごとしい様で、気おくれを感じるが、他の文学にそうした種類の「月毎評判記」めいたものが行われて居るから、少しは言ってもさしつかえのない気がする。批評は作物の従属でないと言う事は、議論ではきまって居る様でいて、実際はなかなか、昔ながらである。作家が批評家を見くだし無視しようとする気位は、まずありうちの正しくない態度であるが、前に言った「月毎評判記」の類では、評家自身は、作物の一附属としての批評を綴っているに過ぎないことになる。ほんとうの批評は、作物の中から作家の個性をとおしてにじみ出した主題を見つける処にある。この主題も、近代劇によく扱われている――而も菊池寛氏が、其を極めてむき出しな方法で示している――様なのを言うとする人々に同じたくない。主題を意識の上の事とするから、そう言った作物となって現れもし、読者たちにも極めて単純にして、聡明《そうめい》なるに似た印象を与えるのである。けれども主題と言うものは、人生及び個々の生命の事に絡んで、主として作家の気分にのしかかって来た問題――と見る事すら作家の意識にはない事が多い――なのである。其をとり出して具体化する事が、批評家のほんとうの為事《しごと》である。さすれば主題と言うものは、作物の上にたなびいていて、読者をしてむせっぽく、息苦しく、時としては、故知らぬ浮れ心をさえ誘う雲気《うんき》の様なものに譬《たと》える事も出来る。そうした揺曳《ようえい》に気のつく事も、批評家でなくては出来ぬ事が多い。更にその雲気が胸を圧《おさ》えるのは、どう言う暗示を受けたからであるかを洞察する事になると、作家及び読者の為事でない。そうした人々の出来る事は、たかだか近代劇の主題程度のものである。批評家は此点で、やはり哲学者でなければならぬ。当来の人生に対する暗示や、生命に絡んだ兆しが、作家の気分に融け込んで、出て来るものが主題である。其を又、意識の上の事に移し、其主題を解説して、人間及び世界の次の「動き」を促すのが、ほんとうの文芸批評なのである。
だから狭い意味では、その将来の方角を見出して、作家の個性を充して行ける様に導いて行くのが批評家の為事であり、も少し広くすると、人間生命の裏打ちになっている性格の発生を、更に自由に、速やかならしめるものでなくてはならぬ。外的に言えば人間生活の上の事情を、違った方角へ導いて、新しい世の中を現じようとする目的を持ったものであることである。
小説・戯曲の類が、人生の新主題を齎《もたら》して来る様な向きには、詩歌は本質の上から行けない様である。だから、どうしても、多くは個々の生命の問題に絡んだ暗示を示す方角へ行く様である。狭くして深い生命の新しい兆しは、最鋭いまなざしで、自分の生命を見つめている詩人の感得を述べてる処に寓《すま》って来る。どの家の井《いど》でも深ければ深い程、竜宮の水を吊り上げる事の出来る様なものである。此水こそは、普遍化の期待に湧きたぎっている新しい人間の生命なのである。叙事の匂いのつき纏《まと》った長詩形から見れば、短詩形の作物は、生命に迫る事には、一層の得手を持っている訣《わけ》である。

   短詩形の持つ主題

俳句と短歌とで見ると、俳句は遠心的であり、表現は撒叙式である。作家の態度としては叙事的であって、其が読者の気分による調和を、目的としているのが普通である。短歌の方は、求心的であり、集注式の表現を採って居る。だから作物に出て来る拍子は、しなやかでいて弾力がある。読者が、自分の気持ちを自由に持ち出す事は、正しい鑑賞態度ではない。ところが芭蕉の句はまだ、様式的には短歌から分離しきって居ない。それは、きれ字[#「きれ字」に傍点]の効果の、まだ後の俳句程に行って居ない点からも観察せられる。芭蕉の句に、しおり[#「しおり」に傍点]の多いのも、此から出て居る。併しながら元々、不離不即を理想にした連俳出の俳句が、本質の上に求心的な動きを欠いて居る事は、確かである。此点に於て、短歌は俳句よりも、一層生命に迫って行く適応性を持って居ることは訣《わか》るであろう。唯、明治・大正の新短歌以前は、その発生の因縁からして、かけあい[#「かけあい」に傍点]・頓才《とんさい》問答・あげ足とり・感情誇張・劇的表出を採る癖が離れきらないで居た。其為に、万葉集以後は、平安末・鎌倉初期に二三人、玉葉・風雅に二三人、江戸に入って亦四五人、此位の纔《わず》かな人数が、求心努力を短歌の上に試みたきりである。だから此点から見れば、短歌の匂いを襲《つ》いで、而も釈教歌から展開して来たさび[#「さび」に傍点]を、凡人生活の上に移して基調とした芭蕉の出た所以《ゆえん》も、納得がゆく。同時に長い年月を空費した短歌から見ると、江戸の俳句の行きあしは遥かに進んで居る。
而も俳句がさび[#「さび」に傍点]を芸の醍醐味《だいごみ》とし、人生に「ほっとした」味を寂しく哄笑《こうしょう》して居る外なかった間に、短歌は自覚して来て、値うちの多い作物を多く出した。が、批評家は思うたようには現れなかった。個性の内の拍子に乗って顕《あらわ》れる生命も、此を見出してくれる人がない間は、一種の技工として、意識せられ、当人の屡《しばしば》同一手法に安住することは勿論、追随者によって摸倣《もほう》せられるのである。島木赤彦が苦しんで引き出した内律、そうして更に其に伴って出た生命は、一片の技工に化して了った様な場合の多かった事を思う。茂吉さんの見出した新生命は、其知識を愛する――と言うより、知識化しようと冀《ねが》う――性癖からして、『赤光』時代には概念となり、谷崎潤一郎の前型と現れた。
正岡子規に戻って見る。この野心に充ちた気分からは、意識的に動きそうに見えながら、態度はその反対に、極めて関心のないものであった。その平明な日常語を標準とした表現と、内容としての若干の「とぼけ」趣味が、彼の歌を新詩社一流の、あつい息ざしを思わせるものとは懸け離れた、淡い境地を拓《ひら》かしたのである。
芭蕉には「さび」の意識があり過ぎて、概念に過ぎないものや、自分の心に動いた暗示を具体化し損じて、とんでもない見当違いの発想をしたものさえ多い。「くたぶれて、宿かる頃や 藤の花」などの「しおり」は、俳句にはじまったのではなく、短歌の引き継ぎに過ぎない。でも「さび」に囚《とら》われないで、ある生命――実は、既に拓かれた境地だが――を見ようとして居る。「山路来て 何やら、ゆかし。菫《すみれ》ぐさ」。これなどは確かに新しい開拓であった。「何やら」と概念的に言う外に、表し方の発見せられなかった処に、仄《ほの》かな生命に動きが見える。これも「しおり」の領分である。歌は早くから「しおり」には長《た》けて居た。「さび」は芭蕉が完成者でもあり、批評家でもあったのだ。

   子規の歌の暗示

子規は月並風の排除に努めて来た習わしから、ともすれば、脚をとる泥沼なる「さび」に囚われまいと努め努めして、とどのつまりは安らかな言語情調の上に、「しおり」を持ち来しそうになって居た。而もあれほど、「口まめ」であったに拘《かかわ》らず、其が「何やらゆかし」の程度に止って、説明を遂げるまでに、批評家職能を伸べないうちに亡くなって行った。
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ていぶるの 脚高づくゑとりかくみ、緑の陰に 茶を啜《すす》る夏
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平明な表現や、とぼけた顔のうちに、何かを見つけようとしている。空虚な笑いをねらったばかりと見ることは出来
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