ないが、尻きれとんぼうの「しおり」の欠けた姿が、久良岐《くらき》らの「へなぶり」の出発点をつくったことをうなずかせる。
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霜ふせぐ 菜畠の葉竹 早立てぬ。筑波嶺おろし 雁《がん》を吹くころ
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「しおり」は、若干あるが、俳句うつしの配合と季題趣味とがあり剰《あま》って居る。殊に岡麓氏の伝えられた子規自負の「がん」と言う訓《よ》み方なども、平明主義と共に、俳句式の修辞である。(又思う、かり[#「かり」に傍点]と訓むと、一味の哀愁が漂うような処のあるのを、気にしたのかも知れない。)何にしても、此歌は字義どおりの写生の出発点を見せているので、生命の暗示などは、問題にもなって居ないのだ。
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若松の芽だちの葉黄《みどり》 ながき日を 夕かたまけて、熱いでにけり
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本質的に見た短歌としては、ある点まで完成に近づいたものと言えよう。平明派であり、日常語感を重んじる作家としての子規である。古語の使用は、一種の変った味いの為の加薬に過ぎなかった。用語の上の享楽態度が、はっきり見えて居るのだ。弟子の左千夫の使うた古語ほども、内的には生きて居ない。人生の「むせっぽさ」を紛《まぎら》す為の「ほっとした」趣味なのである。此歌の如きは、主観融合の境に入って居ながら、序歌は調和以上に利いて居る。頓才さえ頭を出して居るではないか。「夕かたまけて……」も内律と調和せぬほどの朗らかさと張りとがある。没理想から受けた弊であろう。
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瓶にさす藤の花ぶさ 短かければ、畳のうへに とどかざりけり
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この歌まで来ると、新生命の兆しは、完全に紙の上に移されて居る。根岸派では、子規はじめ門流一同進むべき方向を見つけた気のしたこと、正風に於ける「古池や」と一つ事情にあるものである。が、さて其を具体化することは出来ないで了った。その引き続きとして、此歌は漠然たる鑽仰《さんこう》のめど[#「めど」に傍点]に立って居る。此歌とは比較にもならぬ、とぼけ歌や英雄主義――子規の外生活に著しく見えた――を俤《おもかげ》にしたたかくくり[#「たかくくり」に傍点]の歌などの「はてなの茶碗」式な信仰を繋《つな》いで居る類と、一つことに讃《たた》えられて居る。私にもまだよくは此歌の含むきざしは説明出来そうもないが、一つ言うてみよう。畳と藤の花ぶさの距離に注意が集って、そこに瞬間の驚異に似て、もっと安らかな気分に誘う発見感があったのである。これを淡い哀愁など言う語で表す事は出来ない。常臥《とこぶ》しの身の、臥しながら見る幽《かす》かな境地である。主観排除せられて、虚心坦懐《きょしんたんかい》の気分にぽっかり浮き出た「非人情」なのではなかろうか。漱石の非人情論は、主旨はよくて説明のあくどい為に、論理がはぐれて了ったようである。結局藤の花の歌は、こうした高士の幽情とは違った、凡人の感得出来る「かそけさ」の味いを詠んだものなのであろう。
最近の茂吉さんの歌に、良寛でもないある一つの境地が顕《あらわ》れかけたのは、これの具象せられて来たのではないかと心愉《こころたの》しんで見て居る。氏は用語に於いて、子規よりも内律を重んじた先師左千夫の気質を承《つ》いで、更に古語によらなければ表されない程の気魄《きはく》を持って居る。赤彦の創《はじ》めた『切火』の歌風は、創作家の新感覚派に八九年先んじて出て、おなじ手法で進もうとする技工本位の運動であった。其が、赤彦の嗜《たし》む古典のがっしり調子と行きあって、方向を転じて了うたが、『氷魚』の末から『太※[#「虍/丘」、第3水準1−91−45]集』へ渉《わた》る歌口なのだ。そのかみ「切火評論」を書いた私などは、此方角を赤彦の為に示すだけの力のない、微々たるあげ脚とりに過ぎなかったことを思うと、義理にも、批評のない歌壇を慨嘆する様な顔も出来る所ではないのだったが。
文芸の批評は単に作家の為に方角を示すのみならず、我々の生命に深さと新しさとを抽《ひ》き出して来ねばならぬ。その上、我々の生活の上に、進んだ型と、普通の様式とを示さねば、意義がない。短詩形が、人生に与《あずか》ることの少いことは言うたが、社会的には、そう言うても確かな様である。併しその影響が深く個性に沁《し》み入って、変った内生活を拓《ひら》くことはある。芭蕉の為事《しごと》の大きいのは、正風に触れると触れぬとの論なく、ほうっとした笑いと、人から離れて人を懐しむゆとりとを、凡人生活の上に寄与したことにある。
私は、歌壇の批評が、実はあまりに原始の状態に止って居るのを恥じる。もっと人間としての博《ひろ》さと、祈りと、そうして美しい好しみがあってよいと思うのである。
歌人の生活態度から来る歌の塞り
短歌の前途を絶望と思わせる第二の理由は、歌人が人間として苦しみをして居な過ぎることである。謂《い》わば[#「謂《い》わば」は底本では「謂《い》はば」]、懐子《ふところご》或は上田秋成の用語例に従えば、「ふところおやじ」である人さえ多すぎる為である。もっと言い換えるのもよいかも知れぬ。生みの苦しみをわりあいに平気で過している人が多いと。尤《もっとも》、おべんちゃら[#「おべんちゃら」に傍点]でなしに、私の友人たちは勿論、未知の若い人々の間にも、私の心配とうらはらな立派な生活の生き証拠としての歌を発表する人も、随分とある。併し概して、作物の短い形であると言う事は、安易な態度を誘い易いものと見えて、口から出任せや、小技工に住しながら、あっぱれ辛苦の固りと言った妄覚を持って居る人が多い。口から出任せも、吉井勇さんの様なのは、所謂《いわゆる》悪人――失礼だが、譬《たと》えが――成仏に徹する望みは十分にある。ふところ子・ふところ爺の生《なま》述懐に到っては、しろうと[#「しろうと」に傍点]本位である短歌の、昔からの風習が呪《のろわ》しくさえ思われるのである。
短歌は、成立の最初から、即興詩であった。其が今におき、多くの作家の心を、わるい意味で支配して居る。つまりは、認識の熟せない、反省のゆき届かないものをほうり出すところに、作家の日常の安易な生活態度がのり出して来るのである。この表現に苦しむことが、亡き赤彦の所謂|鍛煉道《たんれんどう》の本義である。そうしてこそ、人間価値も技工過程に於て高められて来るのである。併しながらそこまでのこらえじょう[#「こらえじょう」に傍点]のないのが、今の世の歌人たちの心いき[#「心いき」に傍点]である。それは鼻唄もどきの歌ばかり作って居た私自身の姿を解剖しても、わかることである。
この表現の苦悩を積むほかに、唯一つの違った方法が、技工の障壁を突破させるであろう。古代詩に著しく現れた情熱である。その激しい律動が、表現の段階を一挙に飛躍せしめたのである。ところで、澆季《ぎょうき》芸術の上に、情熱の古代的|迸出《へいしゅつ》を望むことは出来ない。我々の内生活を咄嗟《とっさ》に整理統一して、単純化してくれる感激を待ち望むことが出来ないとすれば、もっと深い反省、静かな観照から、ひそかな内律をひき出す様にする事が、更に歌をよくし、人間としての深みを加えることになる。けれどもここに、一つ考えねばならぬ事は、我々の祖先の残した多くの歌謡が、果して真の抒情詩かどうか、と言う事になると、尠《すくな》くとも私だけは、二の足を踏まないでは居られない。古典としての匂いが光被して、鹸《あく》や、脂気を変じて、人に迫る力としていることも、否まれない。
[#ここから2字下げ]
巌門《いはと》破《わ》る手《た》力もがも。嫋《たわや》き女《をみな》にしあれば、すべの知らなく
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]手持[#(ノ)]女王
[#地付き](万葉集巻三、四一九)
これは挽歌《ばんか》として、死霊を和《なご》める為の誇張した愛情である。
[#ここから2字下げ]
稲つけば、皸《かゝ》る我が手を 今宵もか 殿の若子《わくご》がとりてなげかむ
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同巻十四、三四五九)
これが婢奴《めやっこ》の独語とすれば、果して誰が聞き伝えたのであろう。これは必、劇的誇張を以て、共通のやるせなさを唆《そそ》ろうとする叙事詩脈の物の断篇に違いない。こうした古代の歌から、我々が正しく見ることの出来るは、結局生活力の根強さだけと言うことになる。
万葉集による文芸復興
赤彦が教職を棄てて上京して以来の辛苦は、誠に『十年』である。而も其間に、酬《むく》いられ過ぎるほどに、世間は響応した。却《かえっ》て、世間が文芸復興に似た気運に向いていた処だから、「アララギ」の働きが、有力にとりこまれたもの、と見る方が正しいのかも知れぬ。子規以来の努力は、万葉びとの気魄《きはく》を、今の心に生かそうとすることにあった。そうした「アララギ」歌風が――新詩社盛時には、我ひと共に思いもかけなかった程に――世間にとり容れられ、もてはやされた。時勢が古代人の純な生命をとりこもうとし、又多少、そうした生活様式に近づいて来ていたから、とも言うことが出来よう。而も此を直に分解して、個々の人の上にも、同じ事情を見ようとすると、案外な事だらけである。なる程世間は張って居る。可なり太く強く動いて居る。併しその影響から、万葉の気魄や律動を、適当に感じ、受け入れることが出来る様になったとしても、短歌の作者が、必しも皆強く生きて居るものとは、きめられない。事実、流行化した文芸復興熱にひきずられた盲動に過ぎなかったことは、悲観する外はない。だから、一両年此方、段々ある落ちつき場処を求め獲《え》た様子を見ると、万葉の外殻を被《かぶ》って、叙景詩に行き止ったものは、まだしも、多少の生きた気魄を感じることは出来るが、外々の者は、皆一列になまぬるい拍子を喜ぶ様になって、甚しいのは、前にも言った新古今あたりに泥《なず》み寄ろうとして居る。而も「アララギ」自身すら、漸《ようや》く其拍子を替えて来たのに心づかない人はないだろうと思う。が、世間には存外、『十年』一冊の初めとしまい[#「しまい」に傍点]とに見える韻律の変化に気づかない人もある様である。此変化は、主として茂吉が主動になって居る様である。その洋行前、従来なるべく避けた、所謂「捨てや」なる助辞を、子規・左千夫の歌に対する親しみから、極めてすなおにとりこんでいた。アララギ派ではすべての人が、新しい発想法を見出して貰った程の喜びで、なぞって[#「なぞって」に傍点]行った。茂吉帰朝後、作る歌にも作る歌にも、すべての人が不満の意を示した。が、私は茂吉自身の心にひらめく暗示を、具体化しようとしてあせっているのだと思い、時としては、其が大分明らかに姿を見せかけて来るのを喜び眺めた。此が的をはずれて(?)、従来の持ち味及び、子規流の「とぼけ」からする、変態趣味の外皮を破って「家をいでてわが来し時に、渋谷川(?)卵の殻が流れ居にけり」の代表する一類の歌となって現れた。其後、茂吉は長い万葉調の論を書いた。畢竟《ひっきょう》其主張は、以前の、気魄強さに力点を置いたのから、転化して来たことを明らかにしている。恐らく内容の単純化から、更に進んで気分の斉正という処まで出て来たと言われよう。良寛から「才」をとりのけた様な物を、築き上げる過程にあるらしい。此を以て茂吉は尚、万葉調と称して居るが、実は既に茂吉調であって、万葉の八・十、或は十七・十八・十九・二十などとも違ったよい意味の後世風《おとつよぶり》であることは、疑うことの出来ぬ事実である。私は世間の万葉調なるものが、こうした新しい調子に出て、陣痛期を脱しようとするのかと考えている。
尚他の「アララギ」の人々で見ると、文明の、あの歌を鴎外で行ったような態度から、更に違った方角に向おうとして居るのに注意したい。「アララギ」同人中、最形の論理的に整うて居た文明の作風が、『ふゆくさ』以後、自ら語の正確さを疑い出したものか、此までどおり明確・端
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