に過ぎない。でも「さび」に囚《とら》われないで、ある生命――実は、既に拓かれた境地だが――を見ようとして居る。「山路来て 何やら、ゆかし。菫《すみれ》ぐさ」。これなどは確かに新しい開拓であった。「何やら」と概念的に言う外に、表し方の発見せられなかった処に、仄《ほの》かな生命に動きが見える。これも「しおり」の領分である。歌は早くから「しおり」には長《た》けて居た。「さび」は芭蕉が完成者でもあり、批評家でもあったのだ。

   子規の歌の暗示

子規は月並風の排除に努めて来た習わしから、ともすれば、脚をとる泥沼なる「さび」に囚われまいと努め努めして、とどのつまりは安らかな言語情調の上に、「しおり」を持ち来しそうになって居た。而もあれほど、「口まめ」であったに拘《かかわ》らず、其が「何やらゆかし」の程度に止って、説明を遂げるまでに、批評家職能を伸べないうちに亡くなって行った。
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ていぶるの 脚高づくゑとりかくみ、緑の陰に 茶を啜《すす》る夏
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平明な表現や、とぼけた顔のうちに、何かを見つけようとしている。空虚な笑いをねらったばかりと見ることは出来
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