から、即興詩であった。其が今におき、多くの作家の心を、わるい意味で支配して居る。つまりは、認識の熟せない、反省のゆき届かないものをほうり出すところに、作家の日常の安易な生活態度がのり出して来るのである。この表現に苦しむことが、亡き赤彦の所謂|鍛煉道《たんれんどう》の本義である。そうしてこそ、人間価値も技工過程に於て高められて来るのである。併しながらそこまでのこらえじょう[#「こらえじょう」に傍点]のないのが、今の世の歌人たちの心いき[#「心いき」に傍点]である。それは鼻唄もどきの歌ばかり作って居た私自身の姿を解剖しても、わかることである。
この表現の苦悩を積むほかに、唯一つの違った方法が、技工の障壁を突破させるであろう。古代詩に著しく現れた情熱である。その激しい律動が、表現の段階を一挙に飛躍せしめたのである。ところで、澆季《ぎょうき》芸術の上に、情熱の古代的|迸出《へいしゅつ》を望むことは出来ない。我々の内生活を咄嗟《とっさ》に整理統一して、単純化してくれる感激を待ち望むことが出来ないとすれば、もっと深い反省、静かな観照から、ひそかな内律をひき出す様にする事が、更に歌をよくし、人間とし
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